【花束みたいな恋をした】
帰り道、電車の反対側の席のカップルが、二人で同じDr.Martensのブーツを履いて手を繋いでいた。
ああ、この二人もいつか、別々の靴を履く日がくるのかもしれない。
【あらすじ】
東京・京王線の明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会った 山音麦 (菅田将暉)と 八谷絹 (有村架純)。
好きな音楽や映画が嘘みたいに一緒で、あっという間に恋に落ちた麦と絹は、大学を卒業してフリーターをしながら同棲を始める。
近所にお気に入りのパン屋を見つけて、拾った猫に二人で名前をつけて、渋谷パルコが閉店しても、スマスマが最終回を迎えても、日々の現状維持を目標に二人は就職活動を続けるが…。
まばゆいほどの煌めきと、胸を締め付ける切なさに包まれた〈恋する月日のすべて〉を、唯一無二の言葉で紡ぐ忘れられない5年間。最高峰のスタッフとキャストが贈る、不滅のラブストーリー誕生!
──これはきっと、私たちの物語。
一番印象に残っているシーンが、初めて家に来た絹の髪の毛を、麦がドライヤーで乾かすシーン。
付き合っていない男女が、狭いアパートの一室で、真剣に髪の毛を乾かす。
絹は無防備に麦に背を向けて、麦は絹の細い髪の毛を、まるで宝物のように扱って乾かす。
髪の毛を乾かすという行為は、なんて情欲的なんだろう、と想った。
背中を向けるというのは、とても無防備で、心許ない状況で。それでいて髪の毛まで触らせるというのは、自分としては相当気を許すか、好意がなければできないことだし、
それを丁寧に、優しく優しく扱う男性の手つきといったら、肌に触れたり、重ね合わせるよりもずっと、ずっとずっと性的だなと想う。
そういうことを、麦と絹はとてもシンプルにしていた。
少し怠惰的なふしだらや不健全を、ふたりはとてもシンプルに楽しんでいて、圧倒的な『二人の世界』を過ごすやり方を、呼吸をするように知っていた。
お揃いのスニーカー、お笑いライブ、本棚に並んだ文庫本たち。
橙色の街頭に照らされた道を、缶ビール片手に歩いて、たまに走って、カラオケではクロノスタシスを歌って、時計の針が止まって見える現象について話す。
お気に入りのパン屋さんからはきっといつも焼き立ての小麦の香りがして、(そういえば主人公の名前も麦なのは、何か関係あるんだろうか、さすがに無いか)
帰り道のコーヒーはきっと同じ温度でぬるくなっていくんだろう。
実はこの映画は、周りの友達、見た人ほぼ全員に「わたし」っぽいといわれていた。
「このシーンで顔が浮かんできた」
「あなたは言葉の選び方をすると想った」
「こういう恋愛をしているよね、きっと」
と、浮かび方はそれぞれあるようだけど、どこかしらこの映画の中で「わたし」を感じとってくれた人が多くて、
そうか、わたしって、他人からみたらこんな風に見えているのか、と、少し笑ってしまった。
当の本人は、ところどころ、ぎゅっとなって、共感性羞恥のようなものを感じながら、それでもどこか、「ああ、わたしとは違う場所にいるな」と、早々に共感ができなくなってしまった。
だからといって映画が面白くなかった、ということではない。
光がきれいで、少し埃っぽいにおいがする、柔らかな映画だった。
ごく普通の、ただほんの少し世界から隔離された場所にいた二人の、ゆるやかな下降のお話。
それはとても普通で、普通だからこそ痛くて、苦しくて、愛おしい映画だった。
絹も麦も少し変わっていて、「サブカルチャー」を愛しているような、「変わっていること」を愛しているような、アイデンティティのような…とにかく、「自分が自分であること」を何よりも愛している人種だったと想う。
人に理解されるよりも自分の好きなものであったり、ジンクスであったり…愛すべきものに忠実で、それ以外はいらないとさえ想っていそうな彼らは、「わたしっぽい」といわれたわたしが見たって、どうしても「サブカルチャー」であり、ある種の「マイノリティ」だった。
価値観、とは何なんだろうか。
「価値観が合う」ことがとても意味のある、高尚なものだと想われているように感じるが、本当にそうだろうか。
同じものを好きで、同じ歩幅で歩いて、呼吸をして、笑うことは楽しい。
それでも、「価値観が合うこと」が大事なのだろうか、と、価値観を擦り合わせる二人を見ながらぼんやりと想っていた。
価値観が合うことは、わたしはあまり人に求めていない。
もちろん、「そうだよね!」という共感が欲しい時もあれば、同じ価値観を持つ人に「あなたはよくわかってくれている…!」とスタンディングオベーションがしたいときもある。
それでも、それは「価値観が合わない人」が悪なわけではなくて、「価値観が違うからこそ」楽しいことだってある。
だから、好きな人と価値観が合うことがうれしいのではなくて、好きな人が同じ価値観を持っていたことに喜びを感じられる。
そこが、麦と絹は「合う」ことにフォーカスしていたのかなと、想ったりもしたのだ。
麦が「俺、働くよ」と言ってから空いていく二人の距離は、とてもよく分かる気がした。
三ヶ月していない恋人とのセックスは、きっと浮気されるよりも寂しくて。
積み重ねられた本の中に、また無造作に重ねられる自分の気遣いに埃がたまっていく。
お揃いのスニーカーはいつの間にか革靴になって、「これ以上喧嘩しないため」の術は、空を撫でる。
でも、どちらかというとわたしは麦の感情のほうに移入していて(とはいえ、誰かの仕事について遊びだとかいうことについては全く納得はできないけれど)
麦の感情に移入するからこそ、絹の気持ちが痛くなったのは、たぶん、おそらく、わたしの中のずっと奥のほうに、絹の分身のような自分がいたからだと思う。
ここまで書いて気づいたのだが、この映画に、特筆的に書くことがあまりにない。
きっと、あまりにも「普通」だからだ。普通の、変哲のない、あるカップルの下降のお話だからだ。
息をするように偶然というスパイスで恋をして、付き合って、キスをして、セックスをして、同棲をして、喧嘩をして、
そして少し過剰なくらいのまた偶然の上で、二人は泣きながら別れを決意する。
世の中にきっと転がっている、ひとつの日常なのだ。
だからこそ、特筆して(もちろんこれはこうだったんじゃないか、心理描写だったんじゃないか、伏線だったんじゃないか、というのは一旦置いておく)語るべきことはなくて、
ただ、ただ、二人の恋に、花束を贈りたくなる、そんな映画だった。
クランクアップ、お疲れ様でした、と。
いつも映画を見た帰りには、花を買いたくなる。
そのときの感情で、色や、花言葉や、まあそういったものを加味して、花を買いたくなるのだ。
今回も映画の帰りには花屋によったが、私はポピーの花を6本買った。
小さなミニブーケや、花束を承ります、という文字を横目に、私はその6本を買った。
ポピーはまだ蕾で、これから咲くところだったので、それが気に入った。
もう咲ききってしまった花ではなくて、これから咲くような、咲いたら花束になるような、そんなお花が欲しかった。
ポピーはいま、すべて蕾から開花して、花瓶に差されて花束のように咲いている。
恋がしたくなる色をしている、鮮やかなその花たちのように。
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