自分が書いたか、AIが書いたか。
【文章を自分で書くとは?】
僕の人生を変えた書店である天狼院書店の店主である三浦崇典さんが非常に興味深い試みをしています。その名も「AIライティング」です。(違ったらごめんなさい。)
AIに自分の文体を読み込ませた上で、書きたいことを提示すると、本人らしい文章ができあがる。
実際、彼の投稿を読むと、本人が書いたものだとしか思えません。しかも、いろんなテーマで彼が書いたらしい文章が作られています。「これはすごい、自分が書かなくて済む」と思いました。noteやメルマガのコンテンツを爆速に、大量生産することができる世界が待っているとも考えました。
しかし、です。
「文章を作るのにうんうんと唸っている自分、好きじゃね?」
こんな風に思った自分もいたことも事実です。
言葉選びに困ること。
連続で「です」が続いて苦しむこと。
文体が平易で、どうやっておもしろくしようか考えること。
人間とはおもしろいもので、不便を楽しむ側面があるんですね。母数は少ないのかもしれませんが。この楽しみはAIで代替することはできません。AIは、わざと苦しませるようなことはしませんよね。
とはいえ、この文章自体、AIが書いたものかもしれないし、本人が書いたものかもしれない。現在のところ、それを証明する手段はありません。「信じるか信じないかはあなた次第です」という都市伝説のようです。
仮に本人かAIかを証明できるようになったとして、AIが書いたもののほうに価値があれば、それはそれで「うまく共存したね」「活用できたね」という評価になりえます。芥川賞の作家さんでもすでに出てきましたよね。(調べたら5%とあり、「さほど使ってないやん」と思いましたが笑)
本人が書けることの価値って何でしょうか。
自分の頭を使った証拠なのか。頭を使ったとは何を意味するのか。国語力(?)や作文能力(?)を測る証拠なのか。先述した「産みの苦しみ」は価値と言えるのか。
note には文章・言葉のプロがたくさんいらっしゃるので、皆様に「文章を自分で書くことの価値」についてご意見伺いたいです。もしよかったら、シェアだけでもしていただけると幸いです。
「じゃあ、あなたはどう思ってるのよ?」
こんな質問が来た時に用意している、肩透かしのような内容でこの文章の結論としたいと思います。
「AIと共存しながら自分の文章を磨き上げて、AIが書けない文章レベルを常に更新していこうぜ」