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「勉強しても金にならない」とは誰も教えてくれない1

おそらく、私は「勉強」が好きだ。別に気が向けば、何の分野でもいい。

例えば、歴史書を読み、字書で漢字を調べ、それをデータ化して訳注をつけ、調べたことをリストにする。

その作業は、ガンダムのプラモデルを組み立てることとさほど変わらない。設計図と材料があるから、それを組み立てる。ただそれだけである。ガシャーンガシャーンと遊ぶためでもなく、かっこいいなあと眺めるためでもなく、プラモデルとは、ただ組み立てるためだけのものであった。完成したことに、1人達成感を得て、にやけていた。就学前のことで、出資者である親への申し訳なさで処分できず、それらは今、大きな箱のなかで山積みにされ、実家の押し入れの上段に納骨されている。

また、その作業は、漫画の登場人物のリストをつくることとさほど変わらない。小学生になった私が初めて集めた漫画は『聖闘士星矢』だった。単行本の最後に載っていた登場人物がまとうクロスの詳細な解説がたまらなくかっこよく、その変形の仕組みをあーでもないこーでもないと考えていた。そして、父親のワープロを借り、聖闘士たちの名前・星座・クロスの特徴・必殺技を整理した一覧表を作成した。友達も家族もそんなものを見て喜ぶはずがないと思った私は、その完成したリストを1人で眺めて、にやけていた。そのフロッピーディスクは、もうない。

幼い頃に時間と労力をつぎこんだこれらの作業は、いまやっている勉強と変わらない。完成したときの、にやける瞬間を味わいたいだけなのだ。

そんな私が「勉強」について、ついに誰も教えてくれない秘密を知ってしまった。

「勉強しても金にならない」

ついに整理できた。たったこれだけの簡潔な一言でありながら、人間にとって最も重要であろうことをなぜ誰も教えてくれなかったのか。仮に、私が聞き逃していたのだとしよう。しかし、こんな大事なことなら、ある一人の指摘を聞き逃したところで、別の誰かから聞いてもよいはずだ。それなのに私は30年以上生きてきて、誰からも断言された記憶がない。

「勉強しても金にならない」

こんな簡単なことをなぜ誰も断言してくれないのか。考えてみよう。

まずは、「勉強」を「input」と定義しよう。何の勉強でも、どんな方法でもかまわない。歴史漫画で三国志のことを知るのも、音楽雑誌から古いミュージシャンのことを知るのも、ワインの飲み比べをして味を知るのも、情報を得ることはすべて「勉強」としておく。

結論は、いかなる「勉強」であれ、「勉強」は金をうまない。金になるのはあくまで「output」した場合に限るのだ。