『緑の夜』ひと口のつもりだった感想
ユナイテッド・シネマ新潟にて、公開日の翌日に鑑賞してきました。
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女性同士のクライム・バディムービーの要素はありつつ、主人公たちが見ている世界を映像的に表現したような主観的な作品でした。
映像文学的なタッチが終始美しく、主演二人の素晴らしい演技力も相まって非常に見応えがあったと思います。
また冒頭から散見される靴にまつわる一連の流れや、タバコに関するとあるシーン、後述する「とあるセリフ」など、ストーリー上必要な流れの中に所々伏線めいた仕掛けを仕込んでいる感じなど、脚本的にも非常に精緻な印象を受けました。
主人公は、出稼ぎのため韓国の空港で保安検査員として働く中国人のジン・シャ。
常に思い詰めたような表情や、夫と思しき同じ人物から繰り返しかかってくる電話に出ないなど、何か事情があることを初めから匂わせる女性です。
そんな彼女が、まるで捨て犬に懐かれたような成り行きで「緑の髪の女」を助けることになり、次第に裏社会へ巻き込まれるうちにお互いを助け合うようになっていく…という始まり。
公開前からも思っていましたが、この二人を見ているとどことなく『アデル、ブルーは熱い色』を思い出します。
『アデル』に犯罪の要素はほとんどありませんが、悩みや不充足を感じていた女性が「髪色のついた」印象的な女性と出会い、やがてお互いに支え合うようになっていく…という構図には近いものを感じる。
ひいてはいずれの作品も『華麗なるギャツビー』のような、どこかピースの揃い切っていない者同士が出会い、青春的な時間を築き上げたあと別れを告げる…という全体の形が似通っているようにも感じます。
映画や文学に詳しい内田樹さんは、以前より以下の作品群について物語構造が似通っていることを指摘していたことを思い出しました。
スコット・フィッツジェラルド『華麗なるギャツビー』
レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』
村上春樹『羊をめぐる冒険』
これらはいずれも「ペア」ないし「バディ」の出会いと別れの物語です。それは『アデル』の原作グラフィックノベルや映画版においても、そして今作『緑の夜』においても話型が同じように思います。
内田さん曰く、これら作品の主人公にとって、決定的な出会いとなるもう一人の主人公というのは、自分に足りなかった部分・求めていた部分を象徴するようなアルターエゴ──つまり分身のようなものだそうです。
『緑の夜』においてはジン・シャにとって、彼女に欠けていたピースを埋めるかのような存在が「緑の髪の女」だったということです。
内田樹さんはブログの中で、アルターエゴ(主人公の相手役)を以下のように表現しています。
今作の「緑の髪の女」にもそのまま当てはまるような気がします。
さらに同記事では、主人公を続けてこう評しています。
今作の主人公ジン・シャにおいても、彼女は"タフでハードな世界を、誰にも頼らずに生き抜くため"の資質を持っているように感じます。おそらくはその過程で"切り捨ててきたもの"を「緑の髪の女」へ見たのです。
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「緑の髪の女」が、初めてジン・シャと惹かれ合うシーンで発したあるセリフに関しては、この手の映画にしては変なことを言うな…と多少の違和感はありました。
たしかに犬は邪悪ではないし、奔放で、靴も履かずにどこまでも駆けていく存在です。最初にも述べたように、保安検査で靴を没収された彼女が、ジン・シャが呼んだタクシーに相乗りして家まで着いていく強引さ・無邪気さはまるで、気に留めてしまったばかりに懐いてきた捨て犬のようでした。
彼女自身、そのような「動物めいた自由さ」に惹かれてああいう言い方をするのは少し極端な印象を受けはするものの、終盤ジン・シャに生じる「ある想い」と「ある行動」へと結実しているようにも思えますし、映画全体としてはやはりテーマに沿っていたと見られるように思います。
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この物語には、ジン・シャと緑の髪の女には、お互い以外の味方はいません。本当に誰一人いないのです。
そんな周囲の人々や境遇から「許される」生活から、自分たちから「許さない」側へと脱出する、そんな物語です。
脈々と受け継がれるストーリー構造の切っ先に立つようなアジア映画。上映時間は2時間を割っており、(性暴力描写がある点にだけはご注意をいただきたいものの)簡潔に凝縮された要素の数々にも無駄がありません。
やはりというべきか、ポスターに採用されたカットのあるシーンは特に感動的。
1月19日より公開中の本作、うかうかしていると上映終了となる可能性もあります。お見逃しのないよう映画館へはお早めに。
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