アナーキー 藝大 YOUTUBE

オマル マン氏との対談、第13回目。

K「オマル マンさん、こんにちは。前回の「日本の国際市場への復帰」、また「現在の日本のまずさ」のテーマの続きを今後も考えるべきかと私は思っていますが、年末ということで、9月から始まったこのnote対談も既に12回を数え、少しメタ的な視点もここで加えてもいいだろうと同時に考えています。現在において、この対談形式は「特異」であるということ、これも前者のテーマとつながってくると私は思います。」

「内容としては、9月から前半に主にアートに関してオマル マンさんにテーマ提示していただき、後半は同じくオマル マンさん提示の「表現の自由」に絡めたSNSの諸問題に端を発し、私からこのコロナ禍の2年間の、YouTubeの見聞で感じたことを素材として主に例示しました。これら内容も、現在において「特異」だったと私は思います。」

「YouTubeに見られる(主に所謂トップユーチューバーの)配信内容の低さは、私には当初衝撃的もので、その象徴はせんももあいしー。以下、ヒカキン、ヒカル、朝倉未来、シバターに至るまで、私にはイケてる文化的尖端の表象というには対極の、どれも古臭い昭和の香りのするもの、という認識に今日なっています。」

「これらいわば似たもの同士が、さらに積極的にコラボ動画を作ってYouTube界に繁茂していた。「異種交配」ではなく。ひろゆきなどもその系統として映る。それを媒介するものとしてAMEBAがある。その中でも、異質に感じられたのは、やはり比較して登録者数の少ないもの、私は格闘技・武術系に特に注目していましたが、ジークンドーの石井東吾や、「ちょっちゅねー」の具志堅用高(のコラボ動画)等。」

石井東吾のボクシング、具志堅用高さんの忖度なし評価がとんでもないことに
https://www.youtube.com/watch?v=tRVURtivykE

「具志堅氏、石井氏へ「申し訳ないけど、今からボクシングしない?」「石井氏に現役時代に教わっていたら、私は20回は防衛していた」(5:00頃〜)。」

ジークンドーの神技を具志堅が取得できるかやってみた【石井東吾】
https://www.youtube.com/watch?v=XylSyrJf0nI&t=0s

「ここには「内容」があると私は思いました。「内容」があるものは残る。」

O「加藤さん、こんにちわ。「特異」、興味深い視点ですね。「特異」と、以下展開されているYouTubeの状況分析を絡めて、自説を述べたいと思います。ある時期以降、より具体的には10年代の半ばあたりから、次第に「なんかおかしいな?、おもしろくなくね?」と感じるようになりました。2015年以降から、すごい勢いで「検閲」「粛清」の嵐が吹き荒れて、軒並み凍結されて。やり過ぎなくらいにクリーンになってしまって、いまや当たり障りのないコンテンツばかりになってますよね。YouTubeが爆発的に面白かった時期(特異性があった)もあったのですよね。それはもう10年くらい前の頃ですが、とんでもなくエロ&グロな動画がいっぱいあったと記憶してるのですが、素人がこさえたものというのもあって、なまじプロ?の制作したコンテンツよりも「危険度」は高かった。ライブ中に本当にビルからおっこちて死ぬやつとか、アフリカの部族が乱交してるやつとか。ただのエロビデオだろ…みたいなやつもあって。たまに、あの頃のアナーキーな感じが恋しくなる。ゼロ年代に売れる前の鳥居みゆきが「池袋で、精神を"統一"されてしまった方々に勧誘を~」みたいな、放送コードに抵触しまくったネタ動画がアップされてて、超絶美人がキワモノをやる、そのギャップが面白かったのに、メジャーになった途端にダメになっちゃった。もう昔のネタはYouTubeでも見れなくなってる。したがって、YouTubeでは「特異」は成立しません。むしろnoteでの文章の活動の方がまだ可能性が残っている。」

「文章は最強のメディアなのかもしれない。生命力の強さにおいて。」

「一方において、加藤さんの説が示す通り、「内容」がある、という方向性の有力さ。こちらの方向性は、まだ、あいまいで、分かりにくいですが。具体的かつ精緻な言語化が必要となるでしょう。」

K「近年の検閲が、YouTubeの内容を均一化しているんですね。一つの側面として。それがコロナ禍以後に、特に顕著化したことだと。人物で区切ると、立花孝志以後、ということになるかもしれません。立花氏が2019年7月参院選当選以後(正確には、同年10月10日、参議院埼玉県選挙区の補欠選挙に立候補を届け出て、参議院議員を自動失職後)、路上で喋る姿がさらに先鋭化の度を増していった様を覚えています。立花氏は鬱病で統合失調症発症の経験もあるとYouTubeで語っていたので、あの時、再発のギリギリまで行っていたのではないか。あれが最後という印象。」

「立花孝志と丸山穂高が繋がるところまでは、私は見ていて面白いものでした。「異種交配(アナーキー)」はそれ以後は、YouTubeの検閲下の効果により、ある意味では上等になり、目を凝らさないと見えにくいものになった。具志堅用高氏が初めに石井東吾氏の動きを見始めた眼差しは、私は本物だと思いました。石井氏がステップを踏み始めた瞬間に、既に目の色が変わっていたのです。それで「申し訳ないけど、今からボクシングやってみない?」と口に出たのだと。」

「ここには(ハイエクが批判した)「計算する理性」の先行はない。「咄嗟の判断の良さ」(オマル マン氏)だけがある。現実的に石井氏が現在の40歳からボクシングを始めることはないとしても、何らかの実質的な異種配合はおそらくある。ボクシングのトレーナーが石井氏のもとに来て教わった方が良いと、具志堅氏は本気で提言している。」

O「具志堅は引退後、現役時代以上に活躍している、まさに本物のレジェンドです。(パブリックイメージでいう天才肌の天然)では決してなく、しっかり「教育」を受けた、才能と努力を両立している文化人。でなかったら、あんなに長く芸能界で生き残れるはずがないでしょう。」

「「エピゴーネン」と「本物」の差、がYouTube最大の議論だと思います。YouTubeで、”業界内注目度”が高いチャンネルだから「本物」というわけでは決してない。むしろ「本物」に絞ると、100~50万などは皆無で、数万登録くらいのチャンネルに偏差している印象です。個人的には。ただ他方でひとつ懸念点があるとすれば、容易に「学問」に帰結する態度も、良くないとは思います。まずは直感の方がはるかに上。「学問」にはある種の矮小化が内在するので。」

K「前段の、文章の生命力に関して。近年の現代思想の退潮に伴い、デリダ批判という形で、私の経験では2010年代に入ってから話し言葉の権威性の復活を唱える論調が一部知識人間にみられた(彦坂尚嘉さんなどもその一人)。この議論は単純すぎるのでは?という印象が私はありました。私が前回言ったような「複数性」(の可能性)を安易に逃してしまうのではないか?という、疑念。」

「実例として、例えば朝倉未来の場合も、他とのコラボ動画を見ても、似たもの同士が主につながっている印象が強い。内部においても、他のメンバーが「主人」たる朝倉に追従する形になっている。それを、平本蓮などは嘲笑して「金魚の糞」と呼ぶ、など。」

O「「話し言葉」は「素人」が扱える世界ではないのです。芸能のもっとも根本に「声」があります。そういうきわめて文化的に高い次元。だから、「話し言葉」の復権を唱えていた連中、総じて当たってなかったですね。」

「デリダにかこつけて「話言葉」云々いってた連中も、彦坂氏も、終始一貫して「ネタ」。そんなメンタリティだから、そのような気軽な放言が言える。」

「かねてより「人気ユーチューバ―」を観察して気づいていたことなのですが、彼ら/彼女らは悉く、奇妙なほどのハイテンションさがあって、もう一つの大きな特徴として「口癖を抑えている」のです。そのことを”発見”したとき私は「あっ!?」と、少し驚いた。自分も若いときに芸能やらで、死ぬほど怒られたことでもあるので、その発見に際して、いろいろ腑に落ちたのです。喋るときに「まあ…」とか「いや…」とか「えっと…」とか、このような相手が無意識に不快になる「駄目口癖」というものがありますが、ガンガンPV稼いでいる人気ユーチューバ―は、この「駄目口癖」を抑制している。つまり「訓練している」のですよね。彼ら/彼女らに、裏で誰かが何かを教えて、指導している…」

「クラブハウスを茂木健一郎は「認知革命!」といって騒いでましたけど、全部なかったことに。」

「繰り返しになりますが、YouTube=オルタナティブなメディア、という等式は成立しなくなった。10年以上前の、はちゃめちゃな動画で粋がっていた真の「レジスタンス」たちは、抹殺されたのであります(いまだにレジスタンスを自称している”偽物”はいますが)。現在、YouTubeを支えている人達は、芸能人、スカした俗物、あるいは運よく世間に顔が売れたマイルドヤンキー達です。芸能が支配するのです。」

「結果として本当に面白いコンテンツが見つけづらくなっている。視聴者も発信者もモチベーションが下がる一方です。私個人としても、このような惨状を鑑みて、アルゴリズムが変更にならない限り、参入するつもりはありません。いまだと、どうやっても”討ち死”だけです。ではどんな風に趨勢が変わればやるのか? AIにより、巡回ロボットが音声認識で動画の内容を精査できるようになって、新規のユーザーと参入が一気に増えるようなタイミングです。そのようなゴールドラッシュの再来を待たずに、YouTube自体が廃れて次の文化が台頭するかもしれないですけどね。」

「この視座において、「文章」が「喋り言葉」よりも優る点が浮き彫りになります。「喋り言葉」は、多くの人間に届く声になりえるかもしれないが、「届けたい人間」に届かないのです。届けたい人間に、より高い可能性で届く声は、文章の方です。これは「複数性」とも関連している。」

K「鋭い考察をありがとうございます。以上を総合すると、PVを稼ぐユーチューバー(例えばヒカキン)は、「芸能」由来の、他者にとって不快な口癖を抑制する訓練を経た者だということ(確かヒカキンは海老蔵ともコラボしていた、その種の親和性)。しかし、「内容」はつまらない。不快さのない、「心地良さ」だけが、つまり追求されている。心地良い、芸能プロ仕様の話し言葉か、あるいは親が出演させるほとんど無言の戯れる幼児か(または猫か、犬か)。」

「>「届けたい人間に、より高い可能性で届く声は、文章の方」。私自身はただただ直観でnoteの対談形式は始めてみたのですが(最初は美術評論家の矢田滋さんと)。きっかけは、美術家・生須芳英君からちょうど2年前の末に「矢田さんとYouTubeやったら?」と問われたことでした。地理的に互いに離れているので、それでは私が学生時に同人誌主宰の経験もあり、編集担当可能なので、というおよその経緯ですね。それがオマル マンさんとの、現在のこのnote対談につながっている。参照。」

『白黒』における小沢剛《地蔵建立》
https://www.waseda.jp/flas/glas/assets/uploads/2019/04/KANENAGA-Takako_0853-0871.pdf

「ヤフオクに出していた人がいたようです。同人誌3号の表紙と、当時、会田誠の掲載漫画(一部)等。同じく参照。」

会田誠、小沢剛 幻の同人誌「白黒3」ヤフオクに出品しています
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1937&id=52354111

O「興味深く、しばらく見入ってました。加藤豪さんの初期の展開なのですね。圧倒的に「早すぎた」という感じの。生須氏も真っ青な。下手したら、美術手帖を終わらせるポテンシャルがあったのでは...という。70年代初期あたり?の堀浩哉氏などが参画していた頃の、美術手帖の”最良の時代”を彷彿とさせる。」

K「そうですね、このカオスさは、90年代以後の日本のシーンを準備したと言えるかもしれない。私が提起したのは、「雑多なものをやりたい」。シンプルにその一言でした。あとは周囲が勝手にやったと言える。ただ、何らかの「質」だけは与えたかったということですね。単なる「雑」にならずに。」

O「また美術手帖を引き合いにだすと、90年代はもうすでに「駄目」でしたよね。「雑」だけになって、ダラダラした内容に。しっかりしていた時期の何かが、すっぽり抜けてしまった。反面、キオスクに置いてたくらいに部数は伸びていたらしい。」

K「90年代以後になって、私自身はこれら当時周囲の同人の個々の美術活動が、途端に面白くないものに見えるようになった、というのが正直なところあります。ギャラリーに属したり、個々に商業誌に売り込みに精を出していく過程で。同人誌までの期間は、私は彼らの持ち込むアイデアなり原稿を、ほぼ100%に近いほどそのまま受け入れていた。」

O「加藤さんの「100%に近いほどの受け入れてた」というご発言の感触が「まさに」と思ったのですが。世間の動向といっさい関係ないところで、「これ誰が興味があるんだろう?」という物事の方が、むしろ、ものすごいエネルギーが発散されることがある。」

「アートでいうと、それは概して、即座に「古い」云々といって切り捨てられるような物事ですが。加藤さんが中世のゴシックを論じている時も、エネルギー量がすごいと思うのです。」

K「そうですね、(笑)。何か見つけると燃えるんですよね、古かろうが(新しかろうが)。ヴォリンガー(『ゴシック美術形式論』)、おもろ、と。私にとっては、それらの「格付け」とかの如何は、あんまり関係ないかもしれない。」

「それに、ゴシックの本質的な「変さ」は、母体として、私の感覚では現在の技術革命等々にも繋がってきて見えるし。」

O「「格付け」は駄目になった美術手帖の裏チャンネルだったのでしょうね。美術手帖がダメになって、あれで彦坂さんは力を得た。間違いないと思う。」

K「そうですね、その相補的な仕組みが、私には一番に見え透いていて、批判的観点のまさに中心点でした。」

O「そこまで言い切れる人は、加藤さんだけですね→ゴシックと現在の技術革命。」

「まさに独壇場。」

K「直観です(笑)。」

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