何を真実として受けとるか
森田靖也(旧表記:オマル マン)氏との対談、第82回目。
8月2日
K「森田さん、こんにちは。安保瑠輝也が平本蓮の誘いに乗って、MMAに具体的に転向の模索。この移動可能態に注目。」
「背景は、少し前に(参院選直前)、平本が深夜に突如TwitterでK1時代からのファイトマネーの暴露の連投をし始めたこと。いかに安いか。さらに先日、シバターから昨年末の対久保優太戦のファイトマネーを直接聞き、安保は自分は半分以下だと気づいた。これではやっていられないという、開眼があったということ。その揺れる安保を平本がさらに直に言葉で後押し。という構図。面白いですね。「蛸壷」から「ささら」へ。」
M「加藤さん、こんばんは! すごいですね。安保瑠輝也、チャンネル見たら、めちゃめちゃ再生されている。平本蓮「久保優太、けっこう腹黒いですよね…」「毎試合金的蹴る」 シバター「お互いの罠が錯綜して(笑)」。 平本、面白いですね。喋りが面白いって、頭がいい証拠。」
「朝倉について平本「考え方が足立区の中学生w」。三国志みたいな感じで。どいつもこいつも、本当にレベル高いなと。」
K「動画にあるように、平本からシバター に連絡したのが、この展開の始まりのようですね。「嫌われ者の3人で、徒党を組もう」という平本の狙い。安保を加えてMMAのヒールの三人衆ということで。なかなかうまいマーケティングになるかもしれない。計画した平本は大口を開けて笑っているが、緊張も見える。安保は受動的、シバターは客観的。平本はK1から単身MMAに転向してから、「一人でいられない奴は嫌いです」と自分のイデオロギーを述べながら、同時に絶えずSNSで他の誰かと徒党を組むことを模索しているんですね。ここが面白いところ。平本自身が足立区出身なんですね。朝倉に対して、どこか親近感もあるのでしょう。平本が一人いるおかげで、格闘界が新鮮というか、健全になっている感じもしますね。」
8月3日
K「森田さん、こんばんは。違う話題ですが、彦坂尚嘉さんのYoutube動画を見て。内容が、一般論を語るフリをして、私個人に宛てているように受け取れる。このnote対談で度々彦坂さんの動画等は参照し、それへの批評的観点も加えてきていますが、それへのアンサーという風でもない。ただまったく別の話題からの「応酬」という性格は濃く見て取れる。これをどうしたものか?と。」
「動画中、話題は三つほどが(ロジックに沿ってではなく、ランダムに)並べられており、一つは工藤哲巳に関する彦坂氏の経験。これについては、私は彦坂氏から直接聞いたことがあり(氏の主宰するラカン読書会に一度だけ参加させてもらった折に)、パリでの工藤氏との会食について、「あれはいじめだ」と。体育会系な感じですよね。私は、工藤さんがいかにもやりそうなことだという、単純な印象。しかし、彦坂氏にとっては、年来のトラウマになっている事象だということは改めて伺える。」
K「話題の二つ目の絵画制作における画材についてですが、前者と表面的ロジックではつながっていないが、心理的背後にある「トラウマ」という点では、連続しているような印象も私は持った。彦坂さんのSNSでの言語の表現は興味深く私はこの10年見ていて、「流動性物質」例えば粘土に対する「痛めつけられた」経験を彦坂さんは語っている。「二度と触りたくない」と。油絵具に関しても、同様な問題点が私からは推察できる。アクリル絵の具と違って、すぐには乾かないのですね。粘土と同じく、捉え所を無くすと、収集のつかない「泥仕合」になりやすい。この点、日本人には遺伝子レベルで油絵具には適応しがたいとも言える。油絵具使用に必要な個別のロジックと、いわば勝負の行く先を目指す忍耐力において。これを彦坂氏は、日本の気候風土への非適応性へと問題をすり替え、公に発信している印象が私にはあります。そして実際、私はこの12年ほど、それまでの制作形態(=大理石彫刻)を中断し、油絵具による絵画制作のシリーズを手掛けているのですが、正しく使えば剥落は一度たりともしません。彦坂氏は若年期の制作での油絵具の使用について、乾燥したのち「パラッ」「パラッ」と剥落する音を聞く、自身のトラウマとなった体験を痛々しくSNSで語っている。恐怖症。剥落やひび割れはヨーロッパでもする。だから「修復」が必要になるということ。硬化した後の作品についても、日本の風土に適さないのなら、そもそもヨーロッパの作品は日本に持ってこれない。なぜ私の油絵具の使用が剥落しないのか、もちろんそれについての自身の研究をしてきていますが、それについては私の「個別的所有」(=ハイエクの言い方)なので多くを語りたくはない[戦闘機と同じですよ]。「機密性」は当然なのであり、逆にそういうことを細々と公的にペラペラ喋りたがる場合は、逆に私は信用しないのです。そういう経験全体を。」
「ちなみに余談ですが、大きくは、主に西洋美術史にとっての、「写真」の登場に際して、その切断におけるトラウマの核は「写真」ではなく、「油絵具」と指定し私は年来考えてきています。10年代以後。」
「三つ目の上記動画での話題は、「作ることが好きでやっている」一般的態度への彦坂氏の批判ですね。背景にあるのは、美術作品の「社会への登録」、という彦坂氏の自負ですね。どこどこの美術館に保存していなければ、作家の名も作品も「残る」とは言えないと。私はそうではなくて、その基盤の今日の信用の完全な失墜を指摘しているのだから。彦坂氏自身が発言でこう述べている。「美術館には芸術はない」「芸術を見ることができる教養がある学芸員も、美術館館長も日本には存在しないのだ」と。しかし、現実に各地の美術館に彦坂氏の(私に言わせれば「芸術」ではない)作品は多く収蔵されている。彦坂氏の、70年代以来の、当時の左翼系文化人は恐れ慄く松田政男の「映画批評」から始まり、すべてが営業努力の賜物にすぎない。全てが虚妄なのですよ。彦坂氏の70年代「フロアーイベント」の一連の写真作品も、そもそもが芸術として成立していない。「写真」作品としても成立していないのです。「空間」もない、「バルール」もない。本人が「文脈」作りに精を出して流布しただけです。今日、そういう虚仮威しの類は通用しなくなっているというのが、私の根本的な立場です。」
M「加藤さん、こんにちは! 彦坂氏の動画、真っ暗な中でよく顔も見えない「演出」で、 私から見ても加藤さんへの間接的な応答というふうに見えました。 これも左翼仕込みの「怖い」イメージ(?)。」
K「森田さん、こんにちは。私はこれを「演出」とは見ていません。彦坂さんの素直さが出ているだけだと。彦坂さんは、子供のように素直な人だと。」
M「素で語りかけていると。」
K「そうですね。「あれも言っとかなくちゃ、これも」という。子供のような羅列。個々がロジックではつながっていない。」
M「今動画を見ながら、書いてますが。ほんとに真っ暗ですね。最後まで。」
K「そうですね。」
M「この2年くらいで、ずいぶん様子が変わってしまった印象はあるのです。私はもう2年か、そこらへんか、一切接触していないので、そこからの2年ということになります。」
K「顔を隠しているだけだと思います。」
M「70代の2年なので、たんに加齢による印象の変化かもですけど。」
K「私はそうは思いません。最近でも、別の動画では覇気があります。最近知り合った書道家との対話でも、彦坂さんは「若い」と驚きをもって表現がされているぐらい。」
M「そうなのですね。加藤さんへの間接的な応答、という点はどうですか? ここが個人的に、やっぱり気になります。」
K「端的に、こちらが発信した内容に対して、応答はしていませんよね。ただ、「応酬」はしている印象。全く違う話題に変えて。思いつくままに、羅列的に。」
M「そうですね。なんとも言い難く。不思議な「応酬」。言うまでもなく私は彦坂氏の眼中にないでしょうから、お二人の応酬、ですね。すごい不思議なものを見ているという感覚。」
K「こっちの論点に答えないと、実際に応酬にもなりませんよね。彦坂さんに私が発したのは、作品を作り過ぎたということ。「物なんてない!」という連呼が、そこからの現実逃避だと。それを「自分は社会的に登録済みの作家だから、プロの芸術家だ」と自己に保証を求めているようにも受け取れるが、そこの詐術と、彦坂氏の実作を見て私の「これは彦坂氏が唱えている「空間」「バルール」を備えた芸術とは、どれも言えない」と、改めて私は指摘をしている。」
M「彦坂話芸、ですね。いままでも何度も言及してますが。表だって誰も反論しない、という。その背景も含めての、加藤さんの反論。」
K「「表だって誰も反論しない」というのは、例の東浩紀氏と彦坂氏との一件での東氏の指摘にもあるように、彦坂さん以外の、美術界全体の問題だと私は思います。」
M「そうですね。」
K「美術家・北山善夫氏が、公的に「(かつての)銀座の画廊街のドン」と彦坂氏のことを表現しています。そういう彦坂氏への権力的な畏怖が、広く美術界に共有されているんですね。実際に私の知人である精神科医・美術批評家の三脇康生氏は、私に個人間の会話で「彦坂尚嘉怖いよね」と、暗黙の了解を求める問い方をした、かつて。」
M「ただ美術界全体の問題だと、彦坂氏はハブの一つですが、 その全体の問題の核となると、東浩紀氏がいくら「異議」を申し立てても、核心までは、到達できないかもしれないですね。東浩紀氏は「美術村は腐っている。なんで彦坂氏をみんな赦すんだ?」と言っていましたね。」
K「そうですね。大意は。もう少し詳しく言うと、黒瀬氏のカオスラウンジ内での行為が問われた件で、彦坂氏が、東氏の権力で、カオスラウンジ全体の問題に帰すことなく、個別の作家名を上げそれだけを救ってくれと、Twitterで公に「直訴」したということですね。東氏はそれに対して激怒。」
M「そうですね。そのあとは、どうなったのか、よくわからないが。訴訟問題となっているとか。」
K「訴訟書の類を、東氏は彦坂氏に送付したとTwitterで述べていました。その後の展開は、私も知りません。森田さんが言った、上記「核心」が、私は摘めなかった。」
M「加藤さんが仰った「美術界全体の問題」という話の応答だったのですが。」
K「私が言った美術界の問題は、述べたように、彦坂氏の振る舞い方を恐れ、半ばそれが業界の今は端であっても権力化し、同時に無視・放置されているという現実についてですね。」
M「東浩紀が憤りを隠さないように「美術村」は、漠然とあって、彦坂氏を攻撃しても、その全体ではないですよね。端的に、そのような話です。」
K「東氏は、そもそもそういう意図は持っていない。改革のような意図は。ただ憤りで、「なんでこんな人が放置されているんだ?」と、美術界全体の腐りを指摘した。」
M「そうですか。」
K「なぜなら、東氏は自身のことを美術業界の「外部」だと表現している。改革の立場をそもそも設定していない。外部から苦情を述べただけだと。そういう形になっている。そういう謙虚な姿勢だと見ることはできる。」
M「そうなのですね。」
K「実際には、愛知トリエンナーレ2019にも途中まで関わっていたし、自身で「新芸術校」も経営・運営しているので、客観的に「外部」だとは言いにくいが。「美術業界内部ではない」という、自身の必要な言明でしょうね。あくまで「外部」という意識で、美術に関わっていると。だから、言及し過ぎないように、部外者として気を付けてもいると。私のTwitterでの発信に、東氏はそう答えていました。」
M「加藤さんと東氏に、そういうやりとりがあったのですね。」
K「そうですね。微妙なところを明かしていました。「素人が偉そうに美術に口を出すな」と立場上言われかねないことを、事前に折り込んでいる姿勢ということでしょう。私から見れば、美術界全体が、その内容が、彦坂氏が言うように「ど素人」化しているのだから、東氏はその分け目のない全体の一端、裾野の一部に過ぎないという認識になりますが。」
M「そうなのですね。その通りな気がします。」
K「しかし業界内で、彦坂氏が突出しているのは、彦坂氏が自身だけ美術に対して「玄人」の目を持っているという自身の日頃からの主張ですね。この氏の姿勢を、美術界全体が、ほぼ完全に無反応、無視していることの問題ということでしょうね。かいつまんでいえば。」
M「そういうことになってしまうのですね。ねじれていますね。」
K「例えば、美術に対して積極的に発言している茂木健一郎氏も、(空気を読んでか)彦坂氏の発言がたとえ目に触れたとしても、そういう業界内的な同意されたステレオタイプな反応をするでしょう。彦坂氏の固有名にあえて言及せず、「美術に関して優劣を語るのは良くない」という風に。抽象化。」
M「その可能性はありますね。茂木氏が彦坂氏を見ているという。」
K「それは、目に触れるでしょうし。東氏との彦坂氏のTwitterで結構長い期間続いた喧嘩でも。」
M「上記の彦坂氏の動画の話に戻すと、でも、彦坂氏としては「プロ」(と認めた存在だけ)に向かって語るという姿勢は、わりと一貫していますね。 東氏の場合も、当初は、どちらかというと東氏ではなく、、黒瀬陽平に対しての言及だった。たしか、彦坂氏と東氏の応酬では、「ミケランジェロ」とか「ラファエロ」とか、玄人向けの皮肉を交えていた記憶。「東氏はミケランジェロやラファエロを語ったことがあるのか?」とか。これも「蛸壷」というべきか。」
K「そこは、私は記憶が曖昧で。目にした感触は何かありますが。「ミケランジェロとラファエロの違いが分かるのか?」という感じでしょうか?」
M「なんか、「東氏は絵画に就いてストレートに語ったところを見た記憶がない」みたいな皮肉でしたよね。」
K「そういう攻撃をしたんですね。」
M「あなたを「プロ」とは認めてませんよ。という言明。なので上記の動画での、加藤さんへの応酬とは、かなり違う。」
K「「芸術を本当には大事には思っていないのではないか?」という感じでしょうか。彦坂氏、東氏に対して。」
M「そんな感じの。東氏としては火に油を注ぐような感じで。怒りがさらに爆発という流れに。」
K「東氏は自分で芸術校を経営していますからね。」
M「そうですね。」
K「「守らねば」と。彦坂さんは、人の内容ではなく、権力だけは認めるんですよね。そこがポイントでしょうね、東氏がキレたのは。」
M「そのようですね。そういうところは、一貫して、あるみたいですね。」
K「あなたは芸術的に無能だけどと言っているに等しく、権力だけは持っているようなので、それを使って私が好きな作家だけを救済してくれと頼んだ。それは怒りますね、単純に。」
M「そうですね。」
K「彦坂さんは、例えば芸能界なら、ジャニーズ事務所のような権力装置が、業界の流れを決定していくという古い信憑を持っている。それは、彦坂さん周辺の懇意な作家だと、私の印象では田村彰英さんのような優れた写真家も、その範疇にある。田村氏自身が回顧して語るように、日本の写真界の重鎮(田村茂)に迫害を受け、映画界のドン・黒澤明に見出され・拾われることで、写真家としての命を繋いだと。今日、そのようなアーティストの処世のための「権力」利用が、少なくとも単純に公的に肯定されるているわけではない。はざまにある。」
「私自身は、彦坂さんの芸術を語る内容に関心を持ち、鵜呑みにするのではないが、正しい部分は正しいと。語る内容は、作品ではなく。必要な基本的な「空間」「バルール」のことですね。そこを無視するから、日本の美術業界は、全体として馬鹿なのだと私は思いますね。」
M「そうですね。茂木氏の「東京藝大物語」的な、 「美術の裾野」村というのもあって、大きな存在となっている。 私も裾野の裾野でしょうし。彦坂氏は自在に行ったり来たりのワープ。会田氏も、なんか、それを擁護する側風に。ここらへんが、一番、マズいのかも。タコツボのメビウスの環になっているという。」
K「会田誠氏は、彦坂動画で批判される回数の、現存の最も多い作家の一人であるが、会田は完全に無視を決め込んでいる。この臆病さ。馬鹿の王様ですね。いや、私が語ったのは、彦坂作品自体が裾野に立っている物だと。誰も偉そうなところには立っていない。ゆえに森田さんが語るワープなどは幻想だと。」
M「そうなのですね。加藤さんがいうのだから、そうなのでしょう。」
K「私はそう思っていますよ。「すべては嘘だ」という本音の、権力好き、その集合・共同体ですね。私に見えるのは。少なくとも、90年代以来の。」
M「でも、こうやって加藤さんと対談して、発信していけているのだから。私はもちろん裾野は裾野なんだけど。私は楽しんでますけどね。」
K「ありがとうございます。」
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