セザンヌの太もも|アートニヒリズムを超えて
森田靖也(旧表記:オマル マン)氏との対談、第80回目。
K「森田さん、こんにちは。少し、自己言及の部分です。Facebook日記より(7月27日)。」
「巷で「宗教」が話題だが、「すべてはカルト」というような還元図式もある。」
「「宗教」を含め、諸現象にメタ的な批評を加えようとすると、当然だが「自己」についての言及が消える。それではフェアではないというという見方もあると思うので、自己について、たまには中心にありそうな一端を言及してみようと。以下も自己言及の一端になりますか。同じく、昨日のFacebook日記より。」
M「加藤さん、こんばんは。7月に入ってのセンセーショナルな事件、その後の国内での「カルト騒ぎ」、そしてその衝撃は、それにとどまらず、この国の根源的な問題として主題化しつつある。日本は、島国の経済大国という特殊な事情もあるが、もともとソーシャルな圧がとても強い。「コミュ障」で「空気が読めない」人は、絶対に社会的に上昇できないのですね。 だから「ガチャ」(親ガチャ、子ガチャ)っていう言葉が、ここ数年来、流行っているわけだが。他国からみると、異様に見えるらしい。 例えばMITだと7割の生徒がアスペルガーであると。きっちり「結果」さえ出せれば、本人の社会性が低くても、文句いわれない社会なんですね。アメリカでは(その者が)「どれほど知っているのか?」っていう点が、決定的に問われる。美術でも宗教でも、政治でもいいですが。「無知」なままだとカルトの側にヨロヨロと行ってしまうでしょう。80年代(バブル)を今でも執着している文化人→ある種の「純粋さ」みたいなものの受け皿(ゆりかご)が、かつて機能していた時代があったと思っています。」
K「確かに、現代アート界隈も、親ガチャ、子ガチャっぽい風景が。いよいよ。それが日本のポストモダンの、真のリアルな姿だったかと。判明。80年代のゆりかご=ある種の「純粋さ」の保証。これを信じ続ける人々と、現実のリアルとのギャップが所々で生じてくるはずですね。例えば、同じ政治セクトの中でも。近代の左翼的理念を、ファッショナブルな意匠に包んで流通させようとした、80年代。これのいよいよの失効。80年代のゆりかご=ある種の「純粋さ」の保証。簡単に言えば、能力主義。ジェンダーが何であろうが。生まれが何であろうが。それこそ、アスペルガーであろうが。そのゆりかごの、シーラカンス化した保存装置が、日本の「現代アート」だった。それも今日、虚妄であることが露呈。(天才性のない)自称・発達障害者の巣窟へと。セクト解散か? それぞれの。」
「ところで、現在の「親ガチャ、子ガチャ」問題の始原(?)としての、宮崎勤事件ということを私は今考えていました。80年代末。宮崎の実家は裕福で、印刷工場・地域新聞会社経営。事件30年目に、宮崎勤の取り調べ時の肉声が公開されていたと。私は知りませんでした。先ほどたまたま、Youtube動画で見ました。」
M「大衆は、「(本当は)純粋なままでもいいんだよ」ってメッセージに弱い。みんなどこかに純粋さを持っているけれど、実際は隠している。その自己の「心の鍵」を開ける存在を、探している。エヴァとか、その塊みたいなアニメでしたし。現在、現代アート界隈、みんな焦っているように見えます。焦っているということは、自身のカルト性に自覚しているのでしょうね。その一処方箋が、いわば「実体性」を消す、という方向性。物なんて無い!と。」
K「知識人が代表的ですが、例えば現代アートに言及した途端に、纏っていたメッキがパラパラと落ちていくという現象がある。これも「純粋さ」(隠し持っているおぼこさ)の露呈ですね。年齢かかわらず。」
「「物なんて無い!」と。先日参照したこの彦坂尚嘉さんの動画の部分ですね。」
「批評的観点で見ると、これは何を表しているのか?と。一つには、おっしゃるように現代アートの何らかの表象。カメラを凝視して視聴者にダイレクトに語りかけるという動画形式。今日流布している。「ポスト現代思想」の表象でもある。反デリダ等。[例えば原型は、路上で神の声を伝えると称して、誰彼構わず人を捕まえて語るソクラテスの形式。]」
「実際、この彦坂尚嘉氏の実作品を見ると、物量感がとても重苦しくあるんですね(私は近年機会があるごとに足を運んで、実際に鑑賞した経験を持っています)。理由は、実際の重量やサイズの大きさの問題に還元できるのではなく、いわば「透明」感の欠如。彦坂氏の場合、形態の必然性が乏しく、やり散らかした無作為性が強いんですね。対比的に語ると、ヴォリンガーが述べたギリシアの(流動性の中で生成する)「均斉」の要素が欠けていて、より「稚拙」方面のゴシックに近い。過剰な「欲望」だけでどこまでも進んでいくという。」
M「改めて。物性への退却、という戦略は、彦坂氏もあるが、このまえ話をした「惑星ザムザ」にも、やはり同じく出ていたと思っていて。だから、現代アート全体の問題として、みなしうる(と私は思っているのですね)。」
K「物性への退却は、例えば彦坂氏は自覚はあまりしていない。むしろ戦略ゲームに、熱中している印象。「物なんてない!」も、そこから来ると(一つには)。」
M「下手をすると、物性の退却それ自体が「イデオロギー」になりかねない危険がありますね。」
K「あと、私が考えたかったのは、森田さんが指摘した、現代アート業界の人々に共有された、「焦り」の部分ですね。「物なんてない!」も、これと関係ある。」
M「「焦り」はものすごくあるでしょうね。」
K「「物」を作りすぎたんです。物量として。例えば彦坂氏も。引くに引けなくなっている。ここで私が「コレクションの歴史的な助走というのは、まさに物理的重量をもっている」と書いたように。」
「直截に言えば、「芸術」の本質を欠いた諸々の現代アートが、美術館のお荷物になってゆく現象。」
M「物の重さ...に改めて、慄いている風か。80年代の「純粋性」とも、あらためて接続しうる問題ですね。」
K「現実的には、美術館にあるのは物量なので。現代アートは、多くが立体化した。そこで「物なんてない!」と、これは精神の現実からの「解離」の現象と見ることもできる。「現実逃避」。」
M「その質はまったく変わらずに、「物への過剰性」から「物性から退却」に、シフトしたように見えます。」
K「その物量を支え続けるのは、税金なので。アーティストの中にも、不安と焦りが集団的に充満してきて、おかしくはない。「芸術」を盾にしているが、それが嘘だともしバレたらと。彦坂尚嘉氏のウッドペインティングは重苦しい。そして冴えない。なぜあんなに、壁面から張り出しているのか。それを量産し。ハイウェイを疾走するように、切れ目なく。私が思うに、流動的「ギリシア」的均斉の要素がそこにあれば、物量をたとえ伴っていても、それは決して彦坂氏のように鈍重なものにはならない。「透明」。彦坂氏の思考は、それを自覚していると思う。」
M「常に芸術の探求の上で、その想念(ギリシア的均斉)で得られた感覚に、理性を与え、意味を確定していくことが必要なのだと思います。なので、単純に「物性への退却」というのは、芸術の否定につながりかねないでしょう。」
K「彦坂氏は自身の自動車事故の体験を、作品化していますね。現代アートはかようにクラッシュする、と。言わんばかりに[そして、皆落ちていくというさらに付加されたリニアな筋書き]。」
M「(ごく単純に見て)一般人がそれを眺めて、誤解していく危険の方が高い。つまり、「ニヒリズム」に流れていく危険ですね。現に、アート・ニヒリズムといいたくなる。今のSNSネットは。」
K「文化人が、こういう反応をしているのも。」
M「これなんか、まさに。これがニヒリズムじゃないなら、何?と。」
K「先日、この本を読まなくても、書評でだけでも読んでくれとTwitterで宣伝する、大野左紀子氏のその文章に触れて、私は一言だけ言及しました。」
M「どんな人も「体験」だけがあるから、「語って」しまうんですよね。 「修行」経験はなくとも。 「自分は時代を通り過ぎてきた」という自負心ばかりに拠って。 だから「これはアートだ」と。 芸術の実感を伴わずに。」
K「あまりにも馬鹿げた文章だと思ったので。」
M「かくいう私だって、その愚かな一人ですけど。加藤さんに接している役得もあって。一生懸命、生き直している。」
K「ありがとうございます(ハート)。あまりにも、「芸術」の無知・無教養を曝け出している。大野氏の書評。実作を見極めることができなくても、「文脈」をでっちあげれば、一般人は騙せると。そういう、代々身に染み付いた、手管の継承形態。末期的な。後退してゆく「リベラル」の、その糾合の仕草とも、相まって。」
M「アートの極論を脱する、という使命を果たしてない。会田氏は。私の個人の結論は、ここに達していて。大野氏の文章は、なんかよくわからないものですね。端的に、目的を示せていない。アート・ニヒリズムをそのままま文章にしたような記事。」
K「その通りですね。」
閑話休題
M「今はジュネには、否定的だと仰っていましたね。先日。」
K「そうですね。」
M「でも、重要な言及だと思います。そこはコアだと思う。今の今日の芸術の問題の。己を悪として引き受けること。」
K「ジュネの全てを否定している。現在、私は。華美な文体、その他。その時の権力者にちゃっかりとくっつくとかの、ライフスタイルも。」
M「ジュネは、かなり嘘もあるんですよ。カフカとかに比べると。」
K「「あいつは僕を殴るといい、僕はあいつが僕を殴る音に耳を澄ます」とか。こういう受動スタイル。そういう受動の美化。自分の股間に、死んだ恋人が移して残していった毛じらみに、愛おしさを感じるというような[『葬儀』]。「自閉症」マーケティングですね。「権力者」好きの。」
「どうして、フランスの国宝としての、ジャン・ジュネ?かという(笑)。どんな国宝だという。だからフランスはダメポと。彦坂尚嘉・談。」
M「可能性、ないですね。もう。フランス。」
K「ないですね。最後に読んだのが、私は0年代から10年代に翻訳出版された「フーコー講義」。そこまで。フーコーのギリシア論ですね。『主体の解釈学』(廣瀬浩司・訳)。それと、キリスト教論『生者たちの統治』(同じく廣瀬浩司・訳)。」
M「ギリシアに直接行った方が良いっていう。このまえフーコーの対談から、導かれる結論。フーコーからの迂回は、無用と。」
K「そういう結論にもなりますね。フーコーのキリスト教を引きずった、ギリシアへの接近(「懺悔」としての?)。自身の「自閉症」からの脱却の道、というフーコーの文脈は辿れる、私には。例えば、「文を体内化する」という箇所がある。文を同じ輝きとともに何度も歌い直すというのではなく、文をほとんど「筋肉化」すると。ジュネ的「股間の毛じらみを愛おしむ」というのは、前者。歌。そこからの脱却の道。「歌」ではなく、「アスレチック」ですね、方向としては。フーコーのギリシア接近は、その失敗か。どう見ても、運動音痴そうだし(笑)。」
M「フーコーが(最後の想起したのは)キリスト批判かな?って直感的には思いますね。その「歌」っていうのは、キリスト的な「愛」ですよね。愛するがゆえに、愛せない、というパラドクス。」
K「彦坂尚嘉さんも、そうですね。「歌」。」
M「ギリシア的な太陽と、肉体と、大地とが有機的に絡み合った異教的世界への「実感」という、フーコーの目論見があったんでしょうね。アスレチック化っていうのは、分かる気がするが。」
K「彦坂さんも、嫌いだと年来言っていた、歩行運動をしようとしている。Youtubeで語っていますね。彦坂さんが信奉するフロイトは、日課が散歩で、しかもすごく高速に歩くという逸話。歩幅が大きそうな。」
M「彦坂さんの「散歩」「ラジオ体操」...やっぱヤダなあ(笑)。その帰結は。かっこわるい。」
K「ジュネも、国境をまたいでどこにでも行くが、ちょこちょこ歩いている感じ。浅田彰は、そういえば私は美術館で見かけたことがありますが、大股で歩いている感じですよ。背筋ピーンとして。「オウムのようだ」と言っていた、私に。大和文華館の故・中部義隆氏が、名古屋で飲んだときに、バーで。中部氏、琳派の専門家。」
「彦坂さんの、アスレチックへの宗旨替えは、確かにかっこ悪いか。今更。今まで座布団に座りっきりの落語調でやってたのを。」
M「お爺ちゃんアートですね。そのままですからね。ある意味、ラディカルなのか。」
K「でも、確か名古屋に来た時に、高速バスで、彦坂さん悪い人に導かれて、朝から銭湯行って、湯につかると脱力するので、そのまま長距離歩行したら、足をくじいてしまったと。それが今も治らない(?)。これは作家の晩年としては、ちょっと大問題では。少しでも歩けるようにならないと。」
「私も画面に向かう時、足に不調があると、力入らないですよ。気力がそもそも[モンテーニュが言っている、「精神を底で支えるのは筋肉だ」と]。上体を支える土台、この大切さは常に思います。やっぱり、若年期から心がけないと。」
M「そうですね。私もコロナで閉じこもってて、昨日はじめて外出したのですけど、相当体がなまっています。1週間寝てましたからね。」
K「セザンヌの、このマッチョな太腿を見てください(https://www.facebook.com/go.kato.71/posts/pfbid0t92QeqAxNM3Sai7XngdCFSqUNZrruBLwk7uJshaLBRBiErckUSqnDSbt4BamU1QRl)。」
M「山、毎日登ってた...って感じの太さですね。脚。」
K「太腿、ボーン。」
M「脚大事。ほんと。」
K「何にでも使える。逃げる時でも。攻める時でも。」
M「でもしかし、この太さは凄いな...芸術史でも屈指かも。」
K「(笑)。脚力のアート。原始人の表象か(?)。最先端かも。」