40 ひとつになった仏教世界(下) 「仏教国日本」の再建とアジア仏教徒の受難|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇
世界仏教徒連盟会議とサンフランシスコ会議
一九四七年八月十五日、英領インドはインドとパキスタンの分割という形で独立した。翌年二月、スリランカも英連邦内の自治領セイロンとして、整然と独立を果たした。
それから間もない一九五〇年五月、スリランカの首都コロンボにおいて、偉大なパーリ語学者にして在家仏教指導者G・P・マララセーケーラ博士(Gunapala Piyasena Malalasekera一八九九〜一九七三、彼は青年期にダルマパーラの仏教復興運動に共鳴して自らシンハラ名を獲得した)の総指揮のもと、全世界の仏教徒による連合体、『世界仏教徒連盟(the World Fellowship of Buddhists WFB)』の結成会議が開催された。
大乗仏教、テーラワーダ仏教を問わず、日本を含めたアジア諸国そして欧米やハワイからも仏教徒の代表がコロンボに集結した。世界に散らばる仏教徒コミュニティの連帯と相互理解を確立すべく開催された会議において、八正道を象徴する法輪と六色の仏教旗が仏教徒共通のシンボルとして定められた。特筆すべきは、長く南北仏教徒のわだかまりのもとであった「小乗仏教(hīnayāna)」の呼び名が正式に捨て去られ、「テーラワーダ(Theravāda 上座部)」に取って代わられたことだろう。また釈迦牟尼仏陀が降誕・成道・涅槃をしたとされる南方仏教の大祭ウェーサーカを祝日とするよう世界各国に呼びかけるアピールも採択された。
「我々は長きにわたる沈黙を破ろうではないか。二千三百年の隔たりに橋をかけ、北の仏教徒と南の仏教徒とを、再び一つの家族と成そうではないか。」ヘンリー・スティール・オルコットが京都で日本仏教の高僧たちを前に獅子吼を発してから六十年余が経っていた。
昭和九(一九三四)年に東京で開催された「第二回汎太平洋仏教青年会大会」の成果は、第二次世界大戦による中断を乗り越えて、スリランカでの世界仏教徒連盟結成へと繋がっていた。オルコットやダルマパーラそして野口復堂、高楠順次郎らが追い求めた「仏教世界の連合ユナイテッド・ブッディスト・ワールド」というビジョンは、未曾有の戦禍を挟んで、確かに実を結んだのである*107。
世界仏教徒連盟結成の翌一九五一(昭和二十六)年九月、日本の国際社会復帰を話し合うサンフランシスコ会議の席において、セイロン代表のJ・R・ジャヤワルダナ蔵相*108は演壇に立ち、ソ連によって提案された日本の主権制限案に反対し、インドとともに日本に対する賠償請求を放棄することをいち早く表明した。
この演説は日本人に異常なる感動を呼び起こした。世界を敵に回した総力戦に敗れ果て、孤立の極みにあった日本に対し、仏教という共通の絆をもって手を差し伸べようとする人々がいたことに。セイロン代表によるこの名演説こそが、日本を世界的孤立の窮地から救ったのだという賛辞は、日本とスリランカの外交の場でいまだにくどいほど繰り返される常套句となっている。
仏教伝来から千四百年目の「仏教世界の連合(ユナイテッド・ブッディスト・ワールド)」
一九五〇(昭和二十五)年、コロンボの第一回世界仏教徒連盟会議に日本代表として参加した高階瓏仙(曹洞宗十八代管長)は「第二回会議はぜひ日本で開催したい」と訴えかけ、満場の拍手を浴びた。その後、日本国内の調整を経て、一九五二(昭和二十七)年の第二回世界仏教徒連盟(WFB)会議は、まだ戦災の傷跡残る東京で開催されることが決したのである。奇しくもこの年は欽明天皇十三(西暦五五二、一説に五三八)年に百済の聖明王の使者により仏像と経典が初めて持ち込まれ、日本に仏教が伝来してから千四百年目にあたる年であった。
まだ連合国軍の占領下にあり、経済的困窮も甚だしかった日本仏教界にはWFB会議招聘への消極論、反対論が多かった。第一回会議の参加者である中山理々(真宗大谷派)は状況を打開すべく、一九五〇(昭和二十五)年八月の原爆記念日に盟友である常光浩然(浄土真宗本願寺派)を広島に訪ねた。終戦間もない昭和二十一(一九四六)年七月から、各宗派を超えた仏教伝道の機関紙『佛教タイムス』を発行していた常光は、戦前に開かれた「汎太平洋仏教青年会」の体験などを語り、第二回世界仏教徒連盟(WFB)会議をぜひ日本で開きたいという希望を述べた。
常光は十月に広島から上京すると、真理運動の友松圓諦、岩野真雄らとはかり、自由仏教人といわれた同志を糾合すると、一九五一(昭和二十六)年に日本仏教徒会議を結成し、第二回WFB会議の開催を実現するために全国でキャンペーンを繰り広げた。その運動が実って、翌年九月二十五日より、東京の築地本願寺に当時米国統治下の沖縄を含む二十一の国と地域の代表はじめ約五百四十名を招待して、第二回WFB会議を盛大に開催するまでこぎ着けたのである。(山口玄政「仏教タイムスの思い出」6、『佛教タイムス』二〇〇六年六月十五日など参照)
WFB会議の模様は日本の国際社会復帰を象徴する慶事として、講和後初の衆議院選挙戦の最中にもかかわらず新聞などマスメディアでも大きく報道された。朝鮮半島ではいまだ果てしない戦禍が続き、シベリアでは抑留日本兵が強制労働の苦しみにあえいでいた。世界の友好と平和のために、仏教が果たすべき役割への期待は現在からは想像できないほどに高まっていたのだ。
来賓として参列した三笠宮祟仁親王は、聖徳太子の憲法十七条の冒頭に置かれた「和を以て貴しとなす」「篤く三宝を敬え」の二条が日本仏教の基礎となっており、以来、仏教は日本文化の源泉となってきたと述べ、会議を言祝いだ。
三笠宮はかつての大日本帝国を「アジアの小島」と呼んだ。そこにあったのは自虐でも卑下でもなく、亡国に危機に瀕した島国の偽らざる自己認識であった。また文化的ルーツを共有し、日本の国際復帰に腹蔵なく手を差し伸べたアジアの友を最高礼をもって迎え入れんとする高貴なる精神の表れであった。
開会式では、パーリ語の三帰依文に続いて、「五戒の偈文」もネパール代表アミリタナンダー長老を導師にして唱えられた。当初の予定にはなかったが、前日の各国首席代表者会議で、長老から「厳粛な会議の開会式には必ず五戒の偈文を唱えるべきだ」との強固な主張がなされたためだった。また正午以降は食事をとらない各国の上座部仏教僧侶の姿は、円頓無戒を謳歌する僧侶の姿に慣れきった日本仏教徒に大きなカルチャーショックを与えた。
会議の「ご本尊」としてうやうやしく仏舎利(インド・ルンビニー周辺で考古学者カニンガムにより発掘され、スリランカの故スマンガラ大長老のもとに寄贈された釈尊の聖骨と阿羅漢弟子の聖骨)と聖菩提樹を携えて来日したセイロン代表(実際の来日人数は定かではないが、名簿には三十名も載っている)は、やはり仏教世界の盟主たる風格を醸し出していた。世界仏教徒連盟総裁G・P・マララセーケーラ、当時ひときわ光輝を放ちつつあった第三世界の仏教リーダーは、日本人に向けて鋭く問いかけた。
当時は「日本開国以来の大きな宗教会議」(過称)として耳目を集めた第二回WFB大会に集った仏教徒たちは、激化する米ソ対立の狭間で、可憐に世界の平和とアジア仏教徒の連帯を訴えた。
パール博士とWFB大会
ちなみにこの会議には、極東国際軍事裁判(東京裁判)で日本無罪論を主張したことで知られるラダ・ビノード・パール判事をオブザーバーとして招聘する計画が中山理々が中心になって進められていた。しかし独立後初の国政選挙となる衆議院議員総選挙への影響(あるいはアメリカの感情への配慮)を憂慮してパールに来日を中止するよう忠告した日本人がいたこと、日本側の手違いでチケット手配が二転三転したこと、パール博士本人の健康問題などから、直前になって取りやめとなった*111。しかし東京での会議期間中の九月二十七日、インド代表のB・L・アトレヤ博士、ナンダ・バンサ僧正、P・N・ラージャボージの三名は巣鴨プリズンへ赴き、パール博士の名代よろしく戦犯たちを慰問した。ちょうどこの日は拘置所で秋の彼岸会が開かれており、インドの客人との邂逅に、受刑者たちは大いに喜んだという。
「戦犯者をつくることを極力反対したパール元判事が来なかったことは皆さんを失望させたことと思うが、何分年がよっているために随行者がいるので旅費の点でこられなかったのである。今回はアジヤ諸民族のために親切な力を与えて下さった日本の皆様に御礼にまいったのである。諸君の立場に同情を禁じ得ない。国際裁判が如何なるものかは別として戦争犯罪人というものは認められない。犯罪とは我慾を満たそうとして行った不正行為から生れるものだが国のため公のために働いた愛国者が犯罪者となることはあり得ない」と、三氏はパール判決を引き合いに出して、慰問の言葉を述べた*112。当時、東京裁判で「戦犯無罪」を主張したパール判決への支持は、インド知識人の間で広く共有されていたのだ。
一方、パール博士は、中山の不首尾を見かねた下中弥三郎の奔走により、翌十一月三日から広島で開催される『世界連邦アジア会議』に出席するため、WFB大会閉会直後の十月十六日に来日した。ちなみにこの日には、昭和天皇皇后両陛下が七年ぶりとなる靖国神社参拝を行っている。
このパール来日時の言行を中心にまとめられた『パール博士「平和の宣言」』(ラダビノード・パール著、田中正明編、小学館、二〇〇八年二月)を眺めると、明らかに世界仏教徒会議を意識したような、仏教色の強い発言が散見される。おそらく彼は、実現することのなかった第二回WFB会議出席のために、言葉を温めていたのだろう。十一月十一日、皇太子(今上天皇)の立太子礼が行われた日、離日直前のパールが法政大学における最後の講演に選んだ演題は、「仏陀のこころに生きる」であった。
パールはこの講演でもちろん釈尊について触れているが、メッセージの要諦は、日本人が宗教心を取り戻すことで、「正道を踏みて死すとも悔いなき大勇猛心」を涵養し、怯懦を克服する〝魂の再軍備〟を図り、非暴力主義を実践せよ、ということである。
ではパールにとって、仏教とは自らの「非暴力主義」を装飾するための飾りに過ぎなかったのであろうか。そうとも言い切れない。パールが帰印の前日、田中正明に「著書にまとめる際、利用せよ」と託した原稿のひとつ、「世界に必要な宗教」には、彼の深い仏教観が開陳されている。少し長くなるが、引用したい。
最後の段落に記された、「教育体系としての宗教」というひと言ほど、仏教の本質をよく表した言葉はないだろうと思う。パールは間違いなく、仏教の価値の中心となるものを捉えていた。
広島を癒した仏舎利
WFB東京大会は九月二十六日から五日間にわたって、四つの部会(第一:仏教思想、第二:教育教化、第三:仏教の実践、第四:青年部会)に分かれ、二十四議題につき活発な討議を行った。このうち青年部会では、世界仏教青年連盟の信条に掲げられる菩薩道の実践について項目を「六波羅蜜」とするか「十波羅蜜」とするかが協議され、結局、上座部仏教サイドの意見を入れて十波羅蜜となった。第一部会で討議された「仏教平和祈願の日」についても、上座部の意向を容れ「ウェーサーカの日」に決した。また第三部会では二十七日、朝鮮戦争を速やかに停止するよう各国元首に要請すること、世界仏教徒会議の名において各国の仏教団体に南北朝鮮の戦争被害者を救援するべく最大の努力をなすように要望すること、が決議されている。ほかに戦争受刑者(戦犯、抑留者)の釈放と国内送還、あらゆる国における宗教迫害への抗議(この会議に参加した国民党政権側の代表団から出された。中国共産党政権による宗教弾圧を念頭に置いた議案だったが、討議の結果名指しは避けられた)なども可決された。
東京大会の最終日となった九月三十日には各部会の報告に続いて平和宣言を発表した。常光浩然より運営委員会の結果報告がなされ、スリランカ代表によって招来された仏舎利を、原子爆弾が投下された被爆地・広島に「永久平和のシンボル」として贈呈することを満場一致で可決した。第二回WFB大会は地方での大会開催に移り、十月二日の名古屋大会を経て、五日には京都大会が開催され、一応の閉幕を迎えた。しかしその間もその後も、数班に分かれた外国代表団は、十月十三日まで神奈川、静岡、長野、山梨、愛知、宮城、山形、富山、石川、福井、奈良、大阪、兵庫、若山、広島、熊本などを行脚して各地の地方大会で大歓迎を受け、「全国各地に国際仏教運動の気分を横溢させる」という大きな成果を収めた*113。
そのなかでももっとも意義深い集いとなったのは、仏舎利奉安のセレモニーを兼ねた広島大会であった。マララセーケーラら百二十名の海外代表団は、スリランカ代表が持参した仏舎利(と聖菩提樹)とともに十月十一日、特急「安芸」に乗って原子爆弾被爆の地、広島市へと入った。駅前広場は歓迎のために集まった約一万人の群衆で埋め尽くされ、仏旗を先頭に仏舎利を戴いた代表団一行は、仏舎利の仮安置所のある国泰寺まで、沿道で合掌する多くの広島市民に見守られながら、市内をパレードした。「雅楽を先頭に外国代表一行と仏舎利が全市二十数万の慰霊慰問のため行った大行進の市民に与えた霊的付与は名状すべからざるものがあった」*114と現地の新聞は伝えている。
翌日午前、仏舎利受納式と戦争犠牲者追悼法要の会場となった爆心地近くの市民広場には、三万人もの市民が参集していた。「広島市民の皆様が、この仏舎利の前に命をかけて平和を守りますよう、そのことは全世界のすみずみまで、やがて平和をもたらす源となることである。」そう祝辞を述べたマララセーケーラの隣にあって仏舎利の授受に立ち会ったのは、スリランカ主席代表ラジャ・ヘーワーウィターラナ、かのアナガーリカ・ダルマパーラの甥であった*115。同日の広島大会では、第二回世界仏教徒連盟(WFB)会議の「本尊」たる聖仏舎利を奉安する平和塔を広島市に建立することが決議され、その場で海外代表団から四十数万円もの寄付が集められた。また、広島での最終日となった十三日には、一老人が原爆被爆直後に爆心地近くで発見したというケロイド状に焼けただれた仏像が、原爆の惨禍と平和祈念の象徴としてスリランカ比丘僧団に寄進された。また、原爆孤児のひとりの少女と、オーストリア代表として来日した浄土真宗門徒の医師ヘルムット・クラー博士の間で国境を超えた養子縁組がなされ、少女がクラーの勤務地イランへ伴われると決まったことも、会議にまつわる美談として報じられた*116。
WFB広島地方大会の様子は、パール博士らを招聘して開催された世界連邦アジア会議と併せて地方紙のみならず全国的に大きく報道された。現在、広島市の被爆からの復興を記した広島平和記念資料館の年表には、この行事について何も記されていない。しかし一九六九(昭和四十四)年に広島の被爆体験をまとめて出版された『ヒロシマの証言 平和を考える』(広島平和文化図書刊行会編、日本評論社)には、「世界仏教徒会議」として一項目が割かれている。
宗派を超えた慰霊活動から積み上げられた地道な活動が、WFB広島地方大会を成功に導いたのである。さらに第二回世界仏教徒連盟会議を日本で開催する重要な布石が、広島における中山理々と常光浩然の会合であったことを考えれば、この仏教史に残る大イベントが事実上広島で幕を閉じ、その本尊たるスリランカ招来の仏舎利が同地に「永久安置」されたことは、言い尽くせぬほど大きな意義を持っていた。
「仏教国日本」の再建とアジア仏教徒の受難
東京を基点に広島まで、日本全国を席巻した第二回WFB大会は、占領体制から脱却したての日本人に大きな勇気を与えた。仏教徒の大同団結の機運は高まり、それから二年足らずで、伝統仏教教団および諸団体を統一したナショナルセンター、「全日本仏教会」(WFB日本支部を兼ねる)を設立するにまで至った。WFB大会の日本開催は、明治二十二(一八八九)年にやはり日本仏教界の要請で招聘されたオルコット大佐のミッションにも匹敵する、仏教史上大きな意義を持つイベントとなったといえよう*117。
アジア各国における仏教復興のうねりは、しかしまだ終わらなかった。スリランカ・タイ・ミャンマー・インドなどでは、一九五六(昭和三十一)年から翌年にかけて、ブッダの般涅槃から二千五百年を記念する祭典「ブッダ・ジャヤンティ(Buddha Jayanti)」が相次いで祝われた。ビルマ(現ミャンマー)では、一九五四(昭和二十九)年五月のウェーサーカを期して、二年がかりでパーリ三蔵各国版の照合・校正を行う国家プロジェクト「第六結集」が執り行われた。長井真琴ら日本代表を含めて、全世界から僧侶や仏教学者がラングーン(現ヤンゴン)に文字どおり結集する、仏教界挙げての大事業となった。この第六結集の最中、一九五四(昭和二十九)年十二月には、WFB第三回大会がラングーン(現ヤンゴン)で開催され、日本からは六十八名もの代表団が参加した。
一九五六(昭和三十一)年十月十四日、インド憲法の起草者B・R・アンベードカル博士と彼を支持する数十万の不可触民たちは、インド中部ナグプールにおいて、ヒンドゥー教の棄教と仏教への集団改宗を高らかに宣言した。アンベードカルはその直後、十二月六日に逝去したが、現代インドを根底から揺るがす新たなる仏教復興の物語は、この日を原点としていまも展開し続けている。ブッダ・ジャヤンティを機に、仏教涵養の地インドでも、ゴータマ・ブッダの誕生日が国民の祝日として認定された。
しかし、祭りの絶頂は、試練の時の始まりでもあった。同年十一月二十五日、チベットの法王ダライ・ラマ十四世はブッダ・ジャヤンティ式典出席のためインドを訪問した。ネール首相らにチベットの窮状を訴えた法王は翌年いったん帰国するが、一九五九年三月のラサ蜂起によって、ついにインド亡命を余儀なくされた。現在まで続く、チベット仏教徒の離散の始まりである。一九六〇年代から七〇年代初頭まで、仏教圏インドシナ全域を殺戮の渦に巻き込んだアメリカ帝国主義の干渉、カンボジア・ポルポト政権による仏教徒絶滅政策、文化大革命による中国仏教の「壊滅」といった痛ましい事件が、アジア仏教圏で立て続けに起こった。一九六二年のクーデターによって、ビルマ(ミャンマー)は孤立と停滞のなかに自ら足を踏み入れた。アジア全域で「仏陀の勝利ブッダ・ジャヤンティ」二千五百年を祝った平和の祭典ののち、ひとつになった仏教世界は、度重なる「法難」の嵐のなかで、大聖釈尊の教えを守り続けることになった。
註釈
*107 第一回WFB会議の四番目の決議として日本における民間放送の許可要請が挙げられた。これは当時セントポール修道院の電波メディア進出の動きに仏教界が対抗して仏教放送の申請を出していた(紆余曲折の結果、現在の文化放送設立に落ち着いた)ことが背景にある。WFBは本部をタイ王国に移して、隔年の「世界仏教徒会議」を開催し続けている。もちろん、何度WFBで決議を重ねたところで、ウェーサーカの普及など、日本では顧みられないし、「小乗仏教」の蔑称も使われ続けてきた。日本の政府にも影響を及ぼす創価学会はWFBの地域センター全日本仏教協会に加盟せず、むしろ日本独自の日蓮仏教を世界化しようと活動している。いずれにせよ、日本の伝統仏教も数多くの穏健な仏教系新興宗教も、自らをWFBの一員と自任していることは間違いない。「仏教世界の連合」の受け皿としてWFBに代わるものは現れていない。
*108 Junius Richard Jayewardene一九〇六〜一九九〇。一九七七年に統一国民党(United National Party、UNP)を率いて政権奪取したジャヤワルデナは、議院内閣制を廃して初代スリランカ大統領(一九七八〜一九八八)となる。「正義(ダンマ)の政治」を掲げて国民の期待を集めた彼は、それまでの社会主義政策を破棄して自由主義市場経済化を推し進めた。在任中には強力な権力を背景にした恐怖政治を行い、シンハラ民族左派JVPとのテロの連鎖を激化させた。一九八三年の反タミル暴動を契機としたLTTEとの本格的な内戦を勃発させ、ラジヴ・ガンディー(Rajiv Gandhi)首相暗殺の原因となったインド平和維持軍進駐〜撤退にまで到る混乱を招いた。
*109 法句経(Dhammapada)第五偈
Na hi verena verāni, sammantīdha kudācanaṃ;
実に、この世においては、怨みによって、どんな怨みも決して静まらない。
Averena ca sammanti, esa dhammo sanantano.
怨みなき(慈しみ)によって静まる。これは、永遠の真理である。
*110 毎日新聞九月二十五日版に掲載された三笠宮崇仁親王の祝辞は次のとおり。
「釈尊誕生の地インド初め世界各国代表を迎えて喜びにたえません。その昔仏教が渡来してからわが皇室に仏像、経典が贈られ聖徳太子が十七条の憲法を定めて以来仏教は国民生活の背骨となってきました。今年は仏教渡来から千四百年に当りますが、今や原子兵器の発達によって人類の危機が生れようとしているとき仏教界にも新たな使命が生れました。会議の画期的な成果を期待するものである。」
三笠宮は同年十一月四日に日本青年館で開催された講和記念全国青年大会の式場において、
「戦時中、中国地方にいた私は原子爆弾というものについて見聞きしその悲惨さに打たれた。正義の戦いというようなものは現在将来とも存在しないのではないか、われわれはかつて大陸へ武力進出した甘い夢をみ、再び武装して外国へ進出するようなことをしてはならぬ、私は痛切にそれを感じそしてざんげの気持をもってこのことを申上げる」(『中国新聞』五日朝刊、記事は共同配信)と述べて注目を集めてもいた。
その後、三笠宮は一九五六(昭和三十一)年八月にコロンボで開催されたブッダ・ジャヤンティ(釈尊二千五百年祭)に国賓として参列された。翌年の十二月二日には、インドからスリランカに贈られた舎利弗・目連両尊者の聖骨を安置するためのパゴダ建立基金の募金活動に姿を見せて人々を驚かせた。その後も、日本スリランカ協会の名誉総裁として、両国の友好親善に尽くされた。
*111 パール来日取りやめの経緯については、『パール判事』中島岳志、白水社、二〇〇七年、二〇四頁に『毎日新聞』九月二十五日記事の要約が掲載されている。
*112 『中外日報』昭和二十七年十月四日
*113 『中外日報』昭和二十七年十月十四日
*114 『中国新聞』昭和二十七年十月十九日
*115 『一九六一年版 (昭和三十六年版)仏教大年鑑』仏教大年鑑刊行会、一九六二年、二十一頁
*116 『朝日新聞』昭和二十七年十月十四日
*117 一九五二年のWFB大会に冷淡な態度をあらわにし、開会式に大臣どころか一人の代理も出さなかった日本政府だが、一九五七(昭和三十二)年に岸信介が首相に就任すると、風向きが変わった。岸はビルマ、インド、セイロン、タイ、台湾といった「仏教圏」を中心に初の東南アジア諸国外遊を行った。自身が仏教徒であることを公言して、「仏教国日本」の顔を押し立てる外交を展開したのだ。セイロンでの共同声明には「ともに仏教国である日本およびセイロンは共通の仏教文化と伝統により結びつけられている。この結びつきにより両国は仏教の精神に基づいて平和と人類福祉のため特別の寄与を行うことができるものであり、両首相は両国がこの精神により人類の幸福のため協力する決意を確認した。」との文言が入った。岸政権下の一九五九(昭和三十四)年三月末には、石橋湛山を会長にブッダ・ジャヤンティへの答礼として「釈尊二千五百年を讃える会」を開催し、日本政府の予算でアジア諸国代表六十名以上を招いた。その後、全日本仏教会は自民党の支持団体のひとつとなって保守長期政権を支え続けた。