21 「十九世紀の菩薩」オルコット日本来訪(下)新興仏教メディア・ネットワーク|第Ⅱ部 オルコット大菩薩の日本ツアー|大アジア思想活劇
オルコットの上京
京都での熱狂的な歓迎ののち関西圏を巡回したオルコットは三月一日、ついに帝都東京へと乗り込んだ。新橋停車場で仏教学生らの歓迎を受けたオルコットは築地精養軒に投宿。在京の仏教指導者と会合を持ったほか、都内各所で演説会を催してここでも多数の聴衆を集めた。
このような手放しの賛美も、しかし決して大げさなものではなかった。オルコットは四日には皇族の小松宮に接見。十九日には高崎府知事の招待を受け、総理大臣の黒田清隆・西郷従道・榎本武揚ら内閣の首脳を前に「文明の進歩は外形のみにあるのではなく、正しい宗教に基づく精神的な進歩を伴わなければならない。日本に存する仏教こそ完全なる宗教であって、これを捨てて不完全なキリスト教を取ることなどあってはならぬ」と例のごとき持論を演説した。明治天皇への拝謁までは叶わなかったが、高崎府知事を通じてブッダガヤ出土の仏像、スリランカ聖地の菩提樹葉、仏教旗などを奉呈している。
東京での日程を終えたオルコットは三月二十三日に仙台へ向けて出発。東北・北関東・中部地方と「白い仏教徒」の日本行脚はまだ道半ばにも至らなかった。
日本仏教への苦言
仏教復興と国粋主義のススメ。オルコットのメッセージはキリスト教と欧化主義への反動期にあって、しかし微妙な白人コンプレックスを払拭しきれない日本人の心情に、抵抗なく受け入れられるものだった。ただ彼は、現実の日本仏教に対して口当たりのよいおべんちゃらばかり述べていたわけではない。むしろ日本の近代化の進展に比して旧態依然とした仏教界の無気力ぶりに対しては、厳しい言葉も浴びせかけた。特に僧侶の堕落については手厳しく、
などと痛烈な批判をした。
オルコットはテーラワーダ仏教で重視される五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)のうちとりわけ不飲酒戒を説き、飲酒の害を強調してやまなかった。
オルコットの警句は仏事でも酒を欠かさぬ日本の仏教徒にとってはなはだ耳の痛い言葉だったに違いない。
『反省会』のネットワーク
その一方で、白い仏教徒のストイックな主張は、当時日本でキリスト教に対抗して仏教復興運動をリードしていた『反省会』の活動を励ますことにもなった。『反省会』は明治十九(一八八六)年六月、京都の真宗西本願寺派普通教校で起こった綱紀粛正の修道運動である。西本願寺派の青年僧侶や信徒を中心に会員を増やした『反省会』だが、その目的は「禁酒 進徳」つまり禁酒運動の推進にあった。明治維新以来、キリスト教徒が仏教僧侶の堕落や不品行を取り上げて痛烈な批判を繰り広げていたことへの遅まきながらのリアクションであった。
当初は宗門内部の綱紀粛正を説いていた反省会だったが、その活動は徐々に裾野を拡げ、明治二十(一八八七)年八月には機関誌『反省会雑誌』を発行した。『反省会雑誌』は仏教的立場からの時事評論や海外の宗教動向の紹介などを掲載し、徳富蘇峰の『国民之友』と対抗する仏教論壇のオピニオン誌に成長した。のちには仏教色は払拭されたものの『中央公論』という総合論壇誌に発展し、現在に至っているのは周知のとおり。
創刊まもない初期の『反省会雑誌』には神智学協会の南アジアでの活躍や西欧知識人の仏教賛美が一種の目玉記事として掲載されている。当時の日本仏教徒が神智学協会の活動をいかに心強く受け止めていたかがうかがえるというものだ。また当然のことながら、明治二十二(一八八九)年のオルコット来日に際しても大々的にキャンペーンを打った。そして日本中に散らばる反省会の地方会員ネットワークは、汽車と人力車(野口復堂のインド・セイロン旅行記にしばしば牛車が登場したように、オルコットの回想録にもjinrickshasの単語が散見される)を乗り継ぎながら全国行脚を続けるオルコットを迎え入れるための、地方の受け皿としてフル回転したのだ。
反省会の運動とオルコット禁酒演説の影響が相乗効果となった所為か、この年から本山(西本願寺)でも仏事における酒が廃された。
『海外仏教事情』と高楠順次郎
さて『反省会雑誌』の辣腕編集者として知られた櫻井義肇、常連寄稿家だった高楠順次郎といった人々は、のちに至るまでダルマパーラとの交友を絶やさなかった、数少ない日本人に数えられる。このうち高楠順次郎(一八六六〜一九四五)はマックス・ミューラーに師事し、大正新脩大蔵経(漢訳仏教聖典の全集)および南伝大蔵経(パーリ語仏教聖典の邦訳全集)を集成した日本を代表する仏教学者である。
西本願寺派普通教校の学生時代、『反省会』の旗揚げメンバーとなった高楠は、明治二十(一八八七)年八月、日野義淵や神代洞通、松山松太郎ら普通教校有志とともに『欧米佛教通信会』を発足させた。翌年七月には普通教校には『海外宣教会』を興して、海外向けに英文誌『Bijou of Asia(亜細亜之宝珠)』を発行するに至った。
この〝Bijou of Asia〟は英文仏教雑誌の先駆けとして世界的に注目されていた。セイロンにいたダルマパーラも購読しており、同じ明治二十一(一八八八)年十二月に彼が英字週刊誌〝The Buddhist〟を創刊するうえで刺激になったことは間違いないだろう。また海外宣教会では同年十一月下旬に邦文誌『海外仏教事情』も創刊し、南アジアや欧米の仏教事情の紹介に努めた*41。
ただし「欧米の仏教事情」といっても、その多くは神智学協会との通信記録や欧米における近代オカルティズム文献の紹介に当てられていた。近代オカルティズムの成立には仏教思想が多大なインスピレーションを与えていたことは事実であり、また同時にアジアの仏教徒も西欧オカルティストの仏教評価に励まされていた。パーナドゥラ論戦のグナーナンダがブラヴァツキーの『ヴェールを脱いだイシス』抄訳をセイロン全島に配付し、日本の『反省会雑誌』『海外仏教事情』が神智学系のオカルト文献を西欧における「仏教」として喜んで紹介した背景には、そのような一見珍妙な歴史の縁があったのである。
『海外仏教事情』誌への反響は大きく、このとき数千部を瞬く間に完売し、二回にわたって数千部を増刷したほどだった。
註釈
*38 浜松における演説を現代訳(『オルコット氏仏教演説集』森本大八郎編)。
*39 『浄土教報』第三号、一八八九年三月十日、演説要旨の記事を現代訳にした。
*40 〝ODL〟4th, p159
*41 『龍谷大学三百五十年史 通史編 上』龍谷大学、二〇〇〇年によれば、明治二十七(一八九四)年四月、海外宣教会は本部を油小路魚棚より東中筋北小路に移し、『海外仏教事情』を廃刊した。同会記事は『反省会雑誌』の報道へと移される(七六八頁)。英字誌『亜細亜之宝珠』は明治三十二(一八九九)年、反省会の『東亜(ジ・オリエント)』へと引き継がれた。「欧化の風潮を背景に活況を呈した宣教会の活動は、その欧化政策の終息ののちもしばらくは続いたわけであるが、それを支えた欧米への社会的関心の急激な退潮は、その活動の継続を著しく困難にした」(同 四五六頁)と、同書では説明されている。明治中期、欧化主義と国粋主義の狭間で、その両者を止揚し得るアジア発の普遍主義が淡いビジョンとして立ちのぼっていた(……のかなぁ)。