
輪廻のカラクリを見抜く者|ダンマパダ「花の章」をぜんぶ読む1
拙YouTubeチャンネルで公開中の「ゆるねこ仏教オンライン講座」第44回(21 Jan 2025)をもとにした読み物です。文末に元動画へのリンクを掲載しております。
カレンダーの言葉とコラム
これから宮崎ダンマサークル勉強会「ゆるねこ仏教オンライン講座」を始めます。2025年の第一回ですね。今回のスライドの表紙もまた、ゴータミー精舎の寺猫、サーリーちゃんです。

昨年の12月までは2024年のカレンダーを使っていましたが、年が明けたので、2025年のカレンダーを出してみました。ここには12ヶ月分の猫写真が載っています。

そして、一月の言葉はこちらになります。

無造作に置かれた花々を美しく活けるように
人生という素材で、多くの善に励みましょう
これは『ダンマパダ』の第53偈からの言葉です。そして、コラムは次のような内容です。
私たちが人生を通じて出会う出来事は、遊びも勉強も仕事も人間関係も、すべて人生という作品をつくりあげるための素材だと考えてみて下さい。気ままに漫然と過ごしていても、人生は輝きを生みません。しかし、自分の生き方を客観的によく観察して生きるならば、あなたの人生を見事な調和と美の表現へと高めることができるのです。
このカレンダーの言葉もコラムも、基本的にお釈迦様のことば(パーリ経典)を元にして書かれています。その元になった経典のことばをこれから紹介したいと思います。
ダンマパダ56偈の解説
『ダンマパダ(Dhammapada)』の「ダンマ(Dhamma)」は真理や法と訳され、「パダ(pada)」は言葉という意味があります。つまり、「ダンマの言葉」ということで、ここでは「真理の詩」と訳しています。『ダンマパダ』は全部で26章あり、その中の第4章が「プッパワッガ(Pupphavagga)」と呼ばれています。「プッパ(puppha)」は花という意味で、「ワッガ(vagga)」は章を指します。ここに出てくる第53偈から、カレンダーの言葉が取られています。
一応、私のまずい発音ではありますが、パーリ語で読んでみましょう。

Yathāpi puppharāsimhā
Kayirā mālāguṇe bahū
Evaṃ jātena maccena
Kattabbaṃ kusalaṃ bahuṃ
片山一良先生の訳は次のようになります。
花の束から多くの華鬘を
作ることができるように
人間として生まれた者は
多くの善を作るべきなり
「多くの善」というのは「kusalaṃ bahuṃ」で、「bahuṃ」というのは「たくさん」という意味です。「kusala」は善、つまりこの場合の善は、巧みな行いというような意味になります。ですから、「無造作に置かれた花を美しく生けるように、人生という素材で多くの善に励みましょう」という訳は、この花束が人生で起こる様々な出来事を指し、それを使って花飾りや作品を作るように、人生の素材からしっかりとした作品を作ろうということです。
インドでは、神様や仏像に花を供える習慣があり、また、旅人や訪れたお客さんに花のネックレスを贈る習慣もありました。花をたくさん飾る文化があったわけです。それだけ花が身近にあったので、人生を花に例えているのです。
この解説はここまでです。スマナサーラ長老も『ダンマパダ』の「プッパワッガ」について、『パティパダー』巻頭法話で1偈ずつしっかりと解説されていますので、深掘りしたい方はぜひ読んでみてください。
花に喩えて真理を説く ダンマパダ「花の章」の特色
今日は『ダンマパダ』の第4章「プッパワッガ」をざっと読んでみたいと思います。偈の通し番号は44偈から59偈になります。

花に例えて真理を説く『ダンマパダ』の「プッパワッガ」ですが、なぜこの章を全部読んでみようと思ったかというと、この「プッパワッガ」の偈にはけっこう一貫性があるように見えたからです。『ダンマパダ』というのは、各章にタイトルがついていますが、必ずしもその内容に一貫性があるわけではありません。各章に入っている偈(gāthā)は、内容的にはバラバラなパターンもあります。しかし、この「プッパワッガ」に関しては、割と一貫性があり、一つの流れとして読むと「なるほど」と思えるような内容になっているのです。
神霊の問いに答える 偈の性質を再考(44,45偈)
「花の章」冒頭の44偈と45偈は、問いとその答えという続きものになっています。『ダンマパダ』の注釈書を見ると、この44偈と45偈の両方をお釈迦様が唱えたとされています。しかし、初期仏典のパターンに当てはめてみると、最初の偈(44偈)を誰かが尋ね、それに対してお釈迦様が答えていると解釈したほうが自然です。例えば、『スッタニパータ』や『相応部有偈品』などにもよく出てくる形式ですね。

おそらく、この2偈も誰かが問いを投げかけ、お釈迦様がそれに答えた形なのではないかと推測できます。ただ、『ダンマパダ』は全てお釈迦様の言葉とされているので、他人の言葉が混ざるのはまずいわけです。そのため、注釈書では両方ともお釈迦様の言葉として扱われているのだと思います。
以上は私の勝手な当て推量ですが、この二偈は神々(deva,devatā,devaputtaなどと呼ばれる)の質問にお釈迦様が答えた形の問答偈ではないかと考えています。
では、44偈から読んでみましょう。
誰が輪廻を「見抜く」または「征服する」のか?
Ko imaṃ pathaviṃ vicessati [vijessati (sī. syā. pī.)]
Yamalokañca imaṃ sadevakaṃ
Ko dhammapadaṃ sudesitaṃ
Kusalo pupphamiva pacessati
誰がこの地を、閻魔(えんま)の世界を
神と共なる世界を見抜く
誰が見事に説かれた法句(ほっく)を
花摘み巧者のように摘む
偈の最初のフレーズには「vicessati」と「vijessati」の二つのバージョンがありますが、 この「vicessati」というのが少々分かりづらいですね。「vicessati」は「vicināti」という動詞の未来系のようです。「vicināti」とは、鑑別する、集める、調査する、考察する、といった意味があります。そのため、片山先生はこの「vicessati」を「見抜く」というふうに解釈されたのではないかと思います。
注釈書(Aṭṭhakathā)のほうも一応、確認してみました。注釈書によると、「vicessati とは、自分の智(ñāṇa)によって調査し了知するだろうか、洞察するだろうか、証明するであろうか、という意味である」と書かれています。したがって、「見抜く」や「見極める」といった訳が「vicessati 」を取る場合にふさわしいだろうと思います。一方、「vijessati」の場合は「征服する」という意味になるので、意味はシンプルになります。
もう一つ、どうでもいいことかもしれませんが、この第44偈の4行目を見ると、「Kusalo pupphamiva pacessati」というふうに問いかけの文章で終わっています。「pacessati」というのも、やはり集める、寄り分ける、といった意味になるので、「vicināti」の未来系である「vicessati」と、「pacinati」の未来系である「pacessati」はほぼ類義語で掛け言葉になっている、脚韻を踏んでいるのだと思います。1行目と4行目ですね。私はパーリ語の詩のルールについて明るくありませんが、そういう対応関係になっているのではないかと思います。
前半の二行はこうです。
Ko imaṃ pathaviṃ vicessati [vijessati (sī. syā. pī.)]
Yamalokañca imaṃ sadevakaṃ
誰がこの地を、閻魔(えんま)の世界を
神と共なる世界を見抜く
「Sadevaka」は「天(神,deva)と共なる」という形容詞です。「Yama」とはいわゆる閻魔様ですね。この一語で「死」を意味します。閻魔様が死者を審判する神話がよく知られていることでわかるように、「Yama」の世界は生命が死ぬことが前提になっている世界です。つまり、これは輪廻を指している言葉でもあります。
死のある世界を「征服する(vijessati)」と読むならば、輪廻を乗り越えるという意味になりますし、「見抜く(vicessati)」いう場合は、輪廻の構造をちゃんと見抜くことです。輪廻する世界の構造を見抜いて、それに囚われないという意味に取れますね。
後半の二行に行きます。
Ko dhammapadaṃ sudesitaṃ
Kusalo pupphamiva pacessati
誰が見事に説かれた法句(ほっく)を
花摘み巧者のように摘む
これは要するに、「誰が真理を理解するのか?」ということを言っているんですね。おそらく44偈は、神々あるいはインテリの人々が、お釈迦様に質問した内容だと思います。この問いに対して、釈尊は45偈で次のように答えています。
学ぶ人(Sekho)が輪廻を「見抜く」または「征服する」
Sekho pathaviṃ vicessati
Yamalokañca imaṃ sadevakaṃ
Sekho dhammapadaṃ sudesitaṃ
Kusalo pupphamiva pacessati
学人がこの地を、閻魔(えんま)の世界を
神と共なる世界を見抜く
学人が見事に説かれた法句(ほっく)を
花摘み巧者のように摘む
44偈にあった「Ko」は英語で言えば「Who」、日本語で言えば「誰」という意味の代名詞でした。45偈では、それを「Sekho」という単語に変えているだけです。
「Sekho(Sekha)」とは、要するに「学ぶ人」です。仏教用語で「有学(うがく)」と言って、「学ぶことが残っている人」を指します。預流果以上の聖者、つまり一生懸命修行して結果を出しているけど、まだ先がある人を指します。この偈では、一般的に「学ぶ人」という意味で使われています。
仏道を学ぶ人が、閻魔の世界と神と共なる世界(要するにあらゆる神々を含む輪廻の枠の中でトップとされている神々の世界)を超越するのです。「Yama」の世界とは、必ず死ぬ世界、死に支配された世界です。神々から地獄まであらゆる生命がいても、それらはすべて、輪廻(生死)という束縛の世界の住人です。その輪廻の世界を完全に見抜くのは、あるいは征服するのは仏道を「学ぶ人」なのです。
学ぶ人は見事に説かれた法句を、綺麗な花を摘むように理解し、自分のものにします。これが「プッパワッガ(Pupphavagga)」の最初の二偈ですね。注釈書で言われているような釈尊の自問自答ではなくて、誰かの質問に対する答えとして詠まれた偈である、とした方が自然ではないかと思います。
(続く)
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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