”応援する”
ぼくは、乃木坂46の中村麗乃さんを応援している。
れのちゃんの将来に対する可能性を信じるという上品な理由から、ただただ顔・スタイルが好きという下品な理由まで含めて応援をしている。
さて、ここでいう”応援する”というのは何なのだろうか。
答えは明確。
”人によって違う”だ。
だいたいのことは人によって違う。
在宅での応援。ライブ。SNSでの情報共有。
応援の方法は人によって違う。
では、考えてみてほしい。
1年前は現場に行っていたけど、直近は忙しくて推しメンの情報を追えていない人
あなたはこの人を「今も応援している人だ」と言えるだろうか。
多分、この問いは意見が分かれるものだと思う。
”応援している”という”状態”に対する定義が、人によって違うからだ。
そう、応援という行為は非常に曖昧なものであるのだ。
応援は、優劣をつけるものではない。
ただ、応援するという行為で一つだけ、はっきりしていることを見つけた。それは、応援するには”エネルギーがいる”ということだ。
つまり、”自分に精神的な余裕がないと他人を応援できない”ということ。
仕事が忙しいときは、推しメンの情報に手が回らないし
お金がないときは、より見返りを求めてしまうようになる。
「いやいや!僕は、推しメンを生きがいにしています!推しメンの活躍だけを楽しみに生きています!推しメンがすべてです!」
そんなことを思ったのなら、気を付けてほしい。
あなたは多分、精神的な余裕がなくなっている。アイドルを”救い”にしているということに。
昔は、偶像崇拝のようにアイドルは宗教の一種だと思っていた。推しメンのいうことは絶対だし、自分の意見もできるだけ押し殺す。その可愛さに触れ合うために、より酔狂する。
ただ、やっぱりアイドルは宗教ではない。
アイドル側も同様に救いを求めているし、アイドルは教えを説いているわけではないからだ。
極論、アイドルを推すという行為は、自分にブーストをかけるための手段と言い換えることもできると感じる。
やる気を出すために、自己啓発本を読むのと同じ行為。
アイドルを”応援すること”で自分を応援しているのだ。
そんな風に推すと少しは楽にならないかい?
「もっとテレビにでてほしい」
「もっと売れてほしい」
ごもっともだが、そこに執着してしまうのはよくない。
その先に待っているのは現実を直視するということ。つまり、結果を、見返りを求めてしまうということ。
自分を応援してくれている人が、自分のせいで苦しんでいたら、あなたはどう思うだろうか。
応援するという行為で苦しんではいけない。もし、苦しみそうなら精神的余裕をもった状態でまた戻ってくればいい。だって、あなた自身が応援していると思っていれば、ずっと応援していることになるのだから。少なくとも僕はそう思う。
推しメンが本当に苦しいと言っているときに、一緒に苦しめばいいじゃないか。楽しいときは、一緒に楽しめばいいじゃないか。
応援することに疲れ始めているあなたへ
今、自分を応援する余裕があるかい?
ではでは。