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交わろうとする平行線②

私や妹はまだいい方で、日ごろからモラハラを受けていた母の方が深刻だった。当時はまだ「モラルハラスメント」なんて言葉も世に出てきていない時代。年代的にも専業主婦だった母は、父の言動を受け止め、子ども達の為に我慢するしかなかったのだと思う。
私は中学の時に母が心配になり、「お母さん、辛かったら離婚してもええんやで。私働くから。」と母に言った記憶がある。

当時は自分がしっかりせな、母と妹だけは私が守らな、という気持ちが強くそう言ったのだが、母にとってまだ15そこらの子供にそんな台詞を言わせる状況をどう思ったのだろう。今思えば浅はかな発言だったかも知れない。母は「大丈夫よ。ごめんね。」と早く寝るよう私に促したが、翌朝その目は浮腫んでいた。

父は子供の頃の私から見れば暴君そのものだったが、唯一経済観念だけは堅実だった。お給料はきちんと母に渡していたし、ギャンブルや趣味で散財などはせず車も家も現金一括で購入していた。また子供の教育や勉学にかかるお金に関してだけは惜しまず出してくれた。その点だけは純粋に尊敬しているし今では感謝している。それは自分が一人暮らしをし始め働きだすようになってようやく実感できるようになった。

ただ、まだその当時は父への嫌悪感の方が強く、バイトや仕事を理由に実家には盆、正月でさえ帰らない年もあった。実家の母のことはずっと気がかりだったが、逃げるように一人になった時ようやく大きな安堵感と開放感を手に入れた。もちろんホームシックになったこともなく、あまりにも家に寄り付かないので、たまに母から手紙が届くこともあった。まだ携帯電話が普及し始めた頃、母とは時々電話していたがそれも年に数回くらい。

自分から連絡を寄越さない、たまにしか姿を見せない娘を母も心配しただろう。

その後は家庭の事情もあり、母は認知症と胃癌を併発した義理の母親の介護や入院に追われて家事まで手が回らなくなり、急激にやつれ、既に社会人として県外で働いていた私が仕事を辞め、実家に戻ることになった。

あの気性難でエキセントリックな父に対し、うちの母だからこそやってこられたんだと思う。

若い頃は本当に父を恨んだし、何故こんな男が自分の親なんだろうとことあるごとに悲観していた。何でも自分の尺度でしか相手を見ようとせず、平気で他人を不快にしたり傷つけるような言動をとり、時には侮蔑したり差別的な発言もする。自分は絶対父のようにはなりたくなかったし、家庭や子供を作りたいと思えなかった。機能不全や親がDV、児童虐待、モラハラするような家庭は世代間で繰り返されるという話もよく耳にしていた。母からは沢山愛情を受けて育ったが、それを上回るくらい父からの被害が大きく、自分が父似の性格なのを自覚していた為、家庭を持つ姿も子供を産んで育てる姿も未だにイメージできないし、そうなる未来がずっと怖かった。

今までそれなりに長く交際が続く相手が何人かいても、どうしても「結婚」というワードを遠ざけてしまい「子供は望んでいない」と伝えて関係が終わってしまったこともある。

けれど後悔はしていない。

私達姉妹がそれぞれ家を出てからは父はあまり干渉してこなくなったが、母には相変わらずモラハラは続いていた。母はいつの間にか見事に父の暴言を受け流す術を身に着け、「また何か言ってるわーってスルーしてるから最近は向こうも諦めてきたのか、年とって怒鳴る元気なくしてきたんじゃない?あの人が大声出さなくなったらそれこそ病気を疑うわよ」と。

長年の父の言動は、後々娘達との間に見事に分厚い壁を作り、自ら「平行線」という交わらない距離を作ってしまった。後悔してもとうに遅いのだが、年々年をとり、寂しいのか特に用もないのに話かけてくるようになった。私もつい去年くらいまでは話かけてくる父に対して適当に相槌をうち、「このヒトが最期を迎える時私は涙とか出るのかな?」と頭の中では非情なことを考えていた。仮に父にどんな背景があろうと、子供の頃に受けた傷は簡単には消えないし、決して許される事ではない。私が長い時間をかけて自分で向き合い、自分が生きやすくする為に消化するしかない…

話は冒頭に戻るが、ふと始めてみようと思い立った写経でその意味を知り、「すべての物事に実体がなく、本質は別にある」のなら、「誤った考え方から距離をおく事で平穏な心でいられる」のなら、私が父の下に生まれたのには何かきっと本質的なメッセージがあるのだろうな、と思えた。そして何故か今になってそれが何なのか知りたくなった。
お釈迦様は知る事も得ることもないとおっしゃるが、私はそれでもよいから自分が納得する答えを見つけたかった。

つまらない持論だが、世の中のすべての事にはきちんと来るべきタイミングと意味があり、辻褄が合うようにできていると思う。

今までに感じたことのない強い感情で身体を休ませないと駄目になると思い、長い休みがとれ、結果自身の癌が見つかったこと。必然的に父と会話が増えたこと。体力を戻すためにウォーキングを始め、何となく「一緒に歩く?」と誘ったことでこれまで40年以上平行線だった父との距離がほんの1cmでも縮まり始めたこと。

父が生きているうちに好きにはなれなくても、父と向き合うことにはきっと大きな意味があり、ずっと蓋をし見ようともしなかった「本質的な何か」が見つかるような気がしている。

全ては自分自身が幸せだと思えるように。
自分のための課題だと思って… 

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