善意とか相互扶助とか持続可能性とか
親族も友人もいないこの街に、夫と大きなお腹のわたしが引っ越してきたのは、6年前のこと。
当時も今も、我が家の隣には70代後半のおばあちゃんがひとりで住んでいる。旦那さんはずっと前に亡くなって、3人の息子さんたちは市外でそれぞれ家庭を持っているという。わびしさとは無縁の、お友達が日々にぎやかに出入りするお家だった。
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彼女はわたしたち家族にとても良くしてくれた。
家庭菜園の野菜や手料理をおすそわけしてくれたり、子どもが生まれて家に閉じこもり気味の孤独なわたしに「ちょっとこっちにおいで」と声をかけてコーヒーをごちそうしてくれたり、「1時間くらい坊やをうちでみとくから」と子どもを預かってくれたり。
わたしはうれしくて、里帰りや旅行のお土産を渡したり、パソコンや雨戸の調子が悪いから見てほしいと呼ばれたら(夫が)直しに行ったりした。
子ども達もとても懐いている。
彼女と子ども達の存在は、この街で生まれ育ったわけでも働いているわけでもないわたしとこの土地とを繋いでくれている。「自分の街だ」と感じる。
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そんなおばあちゃんは、ここ1年間くらい、ずっと具合が悪い。
何度か救急車で運ばれたし、この夏はほとんど横になっていた。
先日、宅配弁当の手続きをお願いされた。快く引き受けたけれど、数日悩んだ末に、
「食事の準備がつらい日があること、息子さん夫婦にも伝えたほうがいいんじゃないかな。」
と言った。そうしたら、とんでもないというふうに首を振って、
「息子夫婦の負担になるわけにはいかないから、言えないなあ。」
と言う。かといって、行政の福祉サービスを受けるほどには深刻な状態ではないらしい。
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ふと、善意や相互扶助の限界について考える。
経済的合理性では説明できない物事のうち、善意や相互扶助からこぼれ落ちているものがどれくらいあるんだろう。そのうち、行政サービスやNPO・NGOの支援にもすこしだけ届かない物事。
それらを、どれくらい自分事と思えるだろう。
彼女の現在はわたしの未来だし、
この街の未来はわたしの子ども達の未来だ。
そして、きっと彼女にとっては、わたしが過去の自分だったのだと思う。
そんなことを思いながら、社会起業家にも事業家にもなれないわたしは、今日も彼女に声をかけ、自分にできるぶんだけお手伝いをしている。
もうすぐ、夏が終わる。いい秋になるといい。
おまけ。社会起業家や事業家になった素敵な人たちの一例。