かわいいわたしたち
恥ずかしながら、自分がかわいいかどうかを気にして生きてきた。
容姿にコンプレックスがあったのだと思う。今はもう、自分のことをそれなりに愛らしい顔と体型だと思っているので(生命と豊穣の象徴、土偶 by夫)、当時の気持ちを思い出すことが難しいのだけれど、確かにずっと気にしていた。
女としての性を高く評価してほしいという願望。というよりもきっと本能。
そのうずきに、わたしはずっと疲弊していた。
教室で、カフェで、電車のなかで、会議中に、シンプルに容姿と醸し出す雰囲気を評価されているかもしれない、と感じる瞬間。
評価者は男性か女性かを問わない。むしろ自分自身かもしれない。自意識過剰だとはわかっていても止められない。
そんな願望のような本能のようなあらがいがたい感覚が、子どもを産んで、育てて、仕事して、また生んで、育てて、仕事を再開したら、すがすがしいくらいに消えているではないですか!
ひゃっほーい!
もうこれからは、自分か、特定の誰かのために装えばよい。ダサいと思われるのも怖くないし、女としての評価が低くたって痛くもかゆくもない。なんて気楽なんだろう、と思った。
わたしは次のステージに移行したのだ!
***
どころで、友だちがすくないわたしだが、毎年夏は高校時代の女友だち3人で、時には子連れで集まる(夫は必ず不在)。
今年の夏は地元のキャンプ場にできたコテージに子どもたちも一緒に泊まって、子どもたちが起きている間はBBQをしたり虫獲りをしたり、子どもたちを寝かしつけてからは(寝かしつけは、誰ぞの生死がかかっているのかと思えるほどにみんな必死だった)酒盛りをした。
いつからか、こういうときにはボディスクラブとか、ハンドクリームとか、かわいい日用雑貨とか、そういうちょっとしたもの(日常に追われる生活のなかで自分ではなかなか買わないもの、でも誰かに、特に好き嫌いをある程度知り尽くしている友だちにもらうとうれしくなるもの)を交換するようになった。
今年は、うち一人がくれたフェイスパックをしながらスパークリングワインの栓を抜いて、乾杯した。
子どもたちが残した肉の切れ端や、残った生のキャベツや、ちょっと固くなったおにぎりなんかをわしわし食べながら、この1年でたまったあれやこれやを話す。「会話を盛り上げるためにそろそろこういう話題を投下しなきゃ」とか、「マウントと誤解されないように細心の注意を払って・・・」とか、「この話をする前提としては、あの話とあの話が必要だな」などといった遠慮はいらない。
思いついたことを次々にしゃべっては、笑い飛ばしたり、しんみり共感したり、ねぎらったりする。一人は離婚してシングルマザーだ。もう一人は最近第二子のための不妊治療をやめた。わたしは夫との慢性的な離婚危機と長男の発達特性で悪戦苦闘中。
なにもかもが順風満帆ではない、でもたしかに等身大のしあわせはそこにある36歳の女たちの夏。夜中23時のコテージのリビングで隣室の子どもたちを起こさないように小声で話す空間は、高校生のころのからりと明るい放課後の教室みたいで、それでいて十代の頃感じていたジレンマや劣等感もなくて、とにかくたのしかった。
***
今の日常をあるがまま受け入れて、全力で文句をいいながらも全身全霊でたのしむ。そしてときおり、自分のために、子どもたちのために、特定の誰かのためにうつくしく装う。女としての自分を評価されるためにではなく、自分が自分であることをたのしむために。
世間一般には、おばさんになったって思われるのかも。
でもおばさんになったわたしたちって、最強に自由でかわいいのだ。