緑のゆび
特別支援学校の美術教師をしていた父が、退職後に家庭菜園をはじめた。もう5年になる。毎年すこしずつ腕を上げて、以前は水っぽくどってり太っていたきゅうりはきゅっとスリムにみずみずしく、皮がかたくて小ぶりだったナスはしなやかにしっとり薄い皮につつまれるようになった。
小学校の教師をしていた母は、退職後、長らく手つかずだった庭をよみがえらせた。両親共に現役で手が回らず、夏から秋にかけてぶよぶよした不思議な植物がはえて困っていた日陰にはうつくしい苔や下草を、日向にはさわやかに剪定した庭木を育てている。プランターにはバジルやパクチー。こういうハーブはスーパーなどで買うとそれなりのお値段なので、たっぷり育ててどんどん使える贅沢にうっとりする。
いっぽうの私はといえば。
幼いころから、植物をうまく育てられたことがほとんどない。特に夏のプランター。アサガオは花付きが悪いし全然茂らない。子どもが喜ぶかなと思って毎年植えるミニトマトも、気づいたら花も実もほとんどない巨大な植物になっている。気候のよかった初夏までは青々としていたパクチーは、ひょろっとした2~3本の茎だけが生き残り(もはやこれがパクチーかも謎)、その隣ではよくわからないハーブのからからに乾いた茎が揺れている。
なんでかなあ、どうしてかなあ、と思っていた。
わたしと夫と子どもたちが住む街は農業が主要産業で、大消費圏の東京・横浜を臨む地の利を活かし、あそこも畑。ここも畑。見渡すかぎりほとんど畑。気候が悪いわけはないのである。
その証拠に、おとなりのおばあちゃんもお向かいのおじさんも、プロかと思うほどの立派な畑を作っていて、年中何かを育てている。ちなみに、このおばあちゃんは昔水泳の先生をしていて、特に子どもたちを教えていたそう。お向かいのおじさんは、福祉の仕事をしていたと言っていた。
そこではたと思い浮かんだ仮説。
やわらかくて脆い人間のこころや体をあつかうことができる手は、人と同じように植物も大切にできるのではないかしら。
つまり、人を育むこと、命をつなぐことを仕事にできるような人たちは、緑のゆびをもっている確率が高いのでは・・・?
逆をいえば、どうやら緑のゆびをもっていなさそうなわたしは、人を育てるのへたなんじゃあるまいか・・・?
***
年長になった長男が1年ぶり2度目の荒ぶり期に突入していて、うまく向き合えないのがつらいわたしは、最近そういう発想になってしまいがちだ。
彼は、心を許せる相手だと特に、納得できないことや気に入らないことがあると強い言葉と極端な表現で感情をぶつけてくる。わたしには特に、愛をためすような言葉が多い。「〇〇(自分の名前)のこともう好きじゃないんだね!?」とか、「嫌いって思ってるんでしょ!?」とか、「ちいさいときからかわいがってくれていなかった・・・」とか(白目)。
なお、この路線は次男が産まれてしばらくしてから発現した。愛情不足なのかもと根気よく言葉をつくして行動で表して愛を伝えてきたために母の愛にはそれなりに自信が持てたのか、近頃は表現が「〇〇してくれないとママを嫌いになるよ」や「〇〇してくれないからほんっとーに嫌いになった」など母の心をえぐる脅し文句に変わった。末恐ろしすぎて震える。
思春期に突入したらどうなるんだろう。わたし憤死しちゃうんじゃないかな。
というか、この子は感情のコントロールが苦手だし試し行動が多いのだよな。やっぱりわたしの愛情不足なのかな。
保育園の先生たちにあんなに心配されていたのに、結局発達障害の診断はおりなかった。ということは生まれ持った脳の特性じゃない。・・・ということは、わたしのしつけの問題かな。
心理の先生には、強い言葉と極端な表現には大きなリアクションをせずに淡々とたしなめたり流したりするのがいいと言われていたのに、我慢できずにわたしあんなにリアクションしてしまって、わたしが彼の言動を助長しているのではないかな。
つまり、わたし、ダメな母親なんじゃないかな。
***
そんな話を、先日友人2人(1人は子ども2人がもう小学生と中学生で医療系の仕事、もう1人は子どもが年中で小学校教師)にしたところ、2人とも、
「そんなん、わたしも植物はすぐ枯らすよ。生き物飼うのも絶対無理。」
とのことだった。
あ、そうなの?
でもそういえば、わたしも庭を持ってから庭木を植えたり宿年草を植えたりしているけれど、地植えの植物は、特性に適した日当たりや水はけの場所であれば、まったく手をかけなくてもぐんぐん成長していく。
もしちょっと向いていない場所でも適応していくし、本当に無理そうなら植え替えればちゃんと根を張ってくれる。たまに選定したり虫をとったりするだけでうれしそう。
わたしのゆびは何色なんだろう。
君が君の人生を生きていけるようにときたまサポートできたらうれしいけれど、結局どうかたくさんの幸運が君に降り注ぎますようにと祈ることくらいしかできないのかもしれない。
喜びも悲しみも生きづらさも悔しさもすべて君のもの。
今日も母は悩みながら、君のしあわせを願っているんだけど。そんなこと気づかなくっていいから、今日も思いっきり走り回ってきてね(保育園の先生、ありがとうございます)。