「200CD邦楽」(立風書房 2002)
中村明一さんの「日本音楽の構造」を読み、
日本音楽を聴く必要性を感じた。
思想家 副島隆彦さんが以前言われていたように、
文明外科手術はよろしくない。
文明外科手術は、例えば、明治国家体制となり、
江戸時代のものを全否定し、ヨーロッパに準じようとしたこと。
長年培われてきた音楽をばさりと切り、
ヨーロッパの特殊な音楽を植え付ける。
しかし、成功したのか?
唱歌は既に、我々のふるさとではないか。
洗脳が成功したという事なのかもしれない。
これによって、呼吸法も変わってしまったらしい。
別の教育で、姿勢、走り方なども、それまでとは変わった。
しかし、すでに、明治・大正・昭和・平成・令和。
もう、江戸時代以前の日本は、令和の日本からは
異次元国に過ぎない。己のルーツに遡れず、浮遊する根無し草。
そうそう、この本の話だった。
一度目は、2005年頃に手にした。
そして、ワールド・ミュージックを聴くように、純邦楽を聴いた。
純邦楽は、「今の日本」と ひとつながりではなかった。
なぜ、純邦楽を聴こうとしたのか?
ワールド・ミュージックのひとつとして。
なぜ、純邦楽から離れたか?
ある程度聴いたので、次の機会の、東南アジア音楽の方へ移行した。
2007年、奄美しまうたばかりを聴いたのは、なぜだったか?
日本の原風景的な声と三味線の音色に癒された。
(ワールド・ミュージックをある程度受け入れる人でも、
三味線の音色だけは駄目だという人がいる。
これは、現代日本で一般的なのか。)
なぜ、能楽囃子に惹かれたのか?
緊張感ある時空間に圧倒された。
2013年、なぜ浪曲通いをはじめたか?
音楽を聴かなくなったが(浪曲は音楽のようですが)、
暗中模索の中、なにかを探していた。
声と三味線の音色に、安堵する。
2005年と、2024年では、本の見え方が少し違うようだ。
佐藤聰明さんの「日・月」が紹介されていた。
この時(2005年頃)は聴かなかった。
なんか自分の中で順番のようなものが、無意識的にあるのだろう。
21世紀、日本の学校では和楽器を学べるそうだが、
教育法はどうあれ、和楽器に触れられることは良い事だろうか。
この経験から、純邦楽への興味が沸くであろうか。
純邦楽へアクセスする道があるのならそれでよいのだが。