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花束みたいな恋をしたからなんだよ
2025年2月。
「花束みたいな恋をした」を見た。
鑑賞自体は2回目。
1回目は公開当初の2021年。
当時付き合っていた彼女と見に行った。
年齢的にも精神的にも幼く、かつ映画自体それほど見ていなかったため、
「なんかよかった」
「勿忘(本作のインスパイアソング)好きだな」
程度の感想しか当時は抱かなかった。
しかし今見返してみると、どうしようもなく刺さってしまう。
初見時は有村架純演じる八谷絹(はちやきぬ)の「好きなことだけして生きていたい」という価値観に共感していた気がする。
だが今は菅田将暉演じる山音麦(やまねむぎ)に深く共感し、胸が締め付けられた。
絹と一緒にいたい一心で夢を諦め、社会人になった麦。
対して、自分の好きを第一に考え、理想を追い続ける絹。
麦にとって最も大切な存在が絹であっても、絹にとってはそうではない。
この部分が食い違っているからこそ、結婚に対する価値観も考え方も噛み合わない。
作中で観覧車をバックに絹がボソっと呟く
「4年一緒にいても知らないことってあるんだ」
というセリフ。
他人のすべてを知ることなんてできないし、完全に分かり合うことなどできない。
そんな“当たり前”のことを改めて突きつけられ、食らった。
後々わかることだが、プロローグのイヤホンのくだりは、かつて2人がファミレスで出くわしたおじさんの受け売りだったというオチ。
これは言うなれば「サブカル好きといっても所詮は誰かの焼き回しにすぎない」
と冷笑しているのではないか?
少なくとも著者はそう解釈した。
本作が批判されている要因はこの辺りにあるのだろうなと思う。
そりゃ、映画好きに嫌われる映画になるわけだ。
タラレバになってしまうが、もし麦が絵描きとして成功していたら、絹が転職しなければ、2人を取り巻く環境が違っていれば、
いつまでも別れることなく“日々の現状維持”ができていたのかもしれない。
そういうご都合主義な展開にならないからこそ、カタルシスがあるとも思うが。
つらつらと書き綴ってきたが、
大好きな「街の上で」のキャストが多数出演していることに興奮したり、
羊文学、きのこ帝国、長谷川白紙、崎山蒼士、BAYCAMPなどの言葉が出てきた瞬間、
思わずうわーーーっ!と叫んだり、
そういう瞬間を幸せだと感じてしまった著者はやはり絹側の人間なのだろう。
(麦の部屋の本棚に「ピンポン」の大判と文庫版の両方が揃えられていてかなりアツかった)
現在の自分は、絹側の人間であり、作中の言葉を借りるなら「学生気分でいる人間」だ。
それと同時に好きを仕事にしようと夢を追っているかつての麦でもある。
今このタイミングで本作を見返せてよかった。
どんな形であれ麦と絹の2人にはそれぞれの道で幸せでいてほしい。
そして何よりここまで読んでくれたあなたに幸あらんことを。