実在論のバリエーション
(2020.06.05に書いたブログ記事を転記したものです)
先日,「反実在論のパターン」という記事を書きました。
『科学哲学の冒険』(戸田山和久)によると,反実在論とは世界は認識活動と独立に存在しているけれども,観察不可能なものについて科学によって知ることはできないと考える立場です。反実在論は「反」と付いていますが,世界は認識活動と独立に存在していることをみとめる点で科学的実在論と同じであり,科学哲学では広義の実在論に含まれていました。なお,科学的実在論とは,世界は認識活動と独立に存在し,科学はその秩序について知ることができると考える立場です。
ここから推察されるように,実在論にはバリエーションがあります。今回は,『科学哲学の冒険』で紹介されていた実在論のバリエーションをまとめておきます。
何に対する(反)実在論か?
反実在論は世界は独立して存在するけれども,観察不可能なものについては知ることができないとする立場でした。ここでいう「観察不可能なもの」とは何でしょうか。
観察不可能なものは2種類に区別することができます。1つは観察対象(対象),もう1つは法則です。観察不可能なものの対象とは,たとえば,電子,超ひも,性格,態度などです(性格,態度が“もの”かは一旦置いておきます)。研究対象とも言えます。他方,観察不可能なものの法則とは,いわゆる科学的な法則です。ただし,法則は2種類あることに注意が必要です。第一が,現象論的法則です。落体の法則とか,ボイル=シャルルの法則とか,ケプラーの法則とは,「直接に観察・測定できるマクロな量どうしの間に成り立つ規則性を法則の形にまとめたもの(p.202)」が現象論的法則に相当します。第二が,基本法則です。基本法則とは,「現象論的法則を説明する(p.202)」法則です。この基本法則が観察不可能な法則にあたります。
反実在論は目に見えるものは否定しません。その意味で,現象論的法則は否定しません。実在し,その秩序を知ることができると考えます。一方,目に見えないものに関しては,実在しないし,その秩序を知ることができないと考えます。ですので,目に見えない電子などの存在を知ることはできないし,もちろん,その法則(=基本法則)も知ることはできないと考えます。これが反実在論(ファン・フラーセンによる構成的経験主義など)です。
他方,対象と法則を分けたことで,目に見えない対象の実在について知ることはできるけれど,その基本法則は知りえないと考える立場も存在できます。このような,科学理論のすべてがまるごと真だ,あるいは真だと知りうると言わずに,観察不可能な対象の実在は知れるけれど,基本法則は知れないという実在論としてちょっと控えめな立場(ちょっと弱められた実在論)を,対象実在論entity realismと言います(p.205)。ナンシー・カートライトやイアン・ハッキングは対象実在論の立場の哲学者です。
なぜ観察不可能な対象の実在を知れるのか?
対象実在論は,基本法則が真かどうかを知ることができないと考える一方,観察不可能な対象の実在は知りうるという点で,どちらかという科学的実在論により近づいた考え方です(戸田山先生はこれでは控えめすぎるので,科学的実在論をもう少し強めたいと思っているらしい,詳細は後ほど)。
でも,観察不可能な対象の実在はどのように知りうるのでしょうか。ここでのポイントは「操作可能性による議論manipulability argument」です。目に見えない対象でも意図した通りに介入できることを最もうまく説明してくれるのは,その対象が現にあるということだ,という主張です。
具体的に考えてみます。たとえば,椅子(目に見える対象)があります。その椅子に座ったり,その椅子を台として使ったり,その椅子を武器として使ったりなど,椅子は使用者が意図した通りにうまく扱うことができます。もし,椅子が実在していないなら,なぜこのようなことが起こるか不思議でなりません。これと同じように,目に見えない対象(たとえば,電子)も意図した通りにうまく扱うことができます。このように科学者が実験なんかを通して自然界にちょっかいを出すことを介入と言い(p.209),「その対象が実在していないなら介入できるのはなんだか変,ということは対象は実在しているんだ」というように考えることで,目に見えない対象の実在性を担保します(難しくいうと,操作可能性が存在措定を支えてる(p.209),だそうです)。これが対象実在論です。操作可能性が対象実在論の根拠となっているという点に着目して,介入実在論と呼ぶこともあるそうです。
ちなみに,私は“心”の実在について懐疑的なのですが,もしかしたら,心理学実験で思った通りの操作ができる(自己効力感を上げ下げする,など)ことをもって,“心”は実在していると主張することもできるのかもしれません。ただし,自己効力感が上がったか,下がったかの確認方法にも問題点があると思いますので,そんな単純ではないかとは思います。
戸田山流科学的実在論のNew Version
戸田山先生は『科学哲学の冒険』(以下,冒険)を出版してから10年後に『科学的実在論を擁護する』を出版され,より専門的に科学的実在論の擁護を行なっていました。
冒険ではその端緒が第8章と第9章で展開されますが,その要約はちょっと疲れますので,私なりの要点だけここに記しておきます。
科学理論については理論を文の集まりと考える文パラダイムが前提とされてきた。しかし,文パラダイムは科学理論の理解を妨げることがわかってきた。その代替としてイチオシなのが,理論についての意味論的捉え方である。それは,理論を文の集まりと同一視するのではなく,むしろ文の集まりが当てはまるモデルと考える(p.232)。モデルは,実在システム(=世界)そのものではなく,それが単純化されたレプリカである。したがって,理論(モデル)と実在システムとの間に類似関係が成立する。また,同捉え方では,理論は表象(たとえば,言葉や図)ではなく,表象されるべきモデルになるため,理論を様々な仕方で表象できる(シニフィアンとシニフィエのイメージ,モデルや世界はシニフィエ,モデルを表象するのがシニフィアン)。これらから同捉え方の3つの長所が導ける。(1)科学理論を作るさいに,抽象化と理想化が果たしている重要な役割を正当に扱うことができる,(2)理論を文の集まりと切り離しているために,図やグラフといった,科学で用いられる文以外の表象をきちんと視野に入れられる,(3)文パラダイムでは理論の不可欠の構成要素と考えられていた法則的言明の中心的位置を疑うことで,さまざまな説明を統一的に特徴づける一つの道を与えてくれる(それによれば,説明とは「世界にある反事実的依存関係のパターンに被説明項を埋め込むこと」になる)。これらより,同捉え方を適用することで,科学的実在論の新しいバージョンを作り出せる。それは,科学の目的とは,実在システムに重要な点でよく似たモデルを作ることである。残る課題は,「よく似たモデル」の「よく似た」をどうやって判断するかという科学方法論のメタ正当化の問題である。
…もう,何が何だか,冒険を読んだ人しかわからない要点になってしまいました。詳しくは原点をご参照いただけたらと思います。
勉強すると…
久しぶりに冒険を読んだら,知りたいことがでてきました。
・相対主義ってなに?
・構成主義?構築主義?何が違うの?
これらは冒険で議論されていたわけではないのですが,こういう〇〇主義はいつもよくわからなくなり,しっかりと整理しないまま放置してしまいます。せっかくなのでこれを機に上記のことも調べてみようと思います。
今日は疲れたのでこの辺にして,またいつか改めて調べたことをまとめたいと思います。