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尺度構成はこうせい!指定討論への返答

本ページは、日本心理学会第87回大会(@神戸国際会議場・神戸国際展示場)大会企画シンポジウム『尺度構成はこうせい!尺度に基づく心的構成概念の測定を改めて考える』における武藤拓之先生の指定討論(PDF)への私からの返答です。

指定討論への回答

全員に共通の質問

  • 「良い」尺度とそうでない尺度を線引きする方法は?

実践によるというのが端的な答えです。同質問は、妥当性が心理尺度に帰属する(つまり、道具に性能があるように、心理尺度にも性能がある)という発想から生まれる質問だと思いますが、そうではない妥当性の考え方もあります(たとえば、Standards, 2014)。それに基づくと、心理尺度の妥当性(「良さ」)は、使用(目的に応じたテスト得点の解釈/判断)によって決定されるので、心理尺度をどのように使うかによって「良さ」が変わります。その意味で、「ワインこぼした。シミの大きさは?→後悔の大きさです」(武藤先生の言う、素朴心理測定)も、「良い」尺度になりうることもあります*。
線引きする方法自体が実践によって決まる以上、「この線よりあっち側」が「良い」で、「この線よりこっち側が悪い」とはなかなか言えないと思います。ちなみに、蛇足ですが、私にとってこの質問は、『「良いコミュニケーション」と「悪いコミュニケーション」を線引きする方法は?』という質問のように見えます(誰にとっての、いつの、なんのための、…、良いor悪い?→条件を定めないと決められないが、その条件に定める理由は何なのか?というのが問われる)。
*ただし、この解釈はすこしアクロバットです。Standardsは、心理・教育的測定における心理尺度の「良さ」を考えるガイドなので、心理学的測定という実践が前提とされています(なので、Standardsでは、素朴心理測定は擁護されえないと思います)。しかし、心理尺度の良さは使用によって決定されるという主張は、心理学的測定という実践を前提とする必要は必ずしもなく、したがって、実践次第では、素朴心理測定も擁護されると私は考えています。(2023/10/06、14時15分追記)

  • 心理学的構成概念を実体(entity)と捉える見方をどう考えるか?

武藤先生のご発表を拝聴すると、ここでの実体は神経生理的なものを想定しているように思いました。もしそうなのだとしたら、それは、心理学的構成概念ではなく、神経的ないしは生理的概念であるので、それをわざわざ心理学的構成概念と呼ぶのはなぜなのか、私にはわかりません。たとえば、感情(e.g., 悲しみ)は、心的概念ではなく、神経生理的なものなのだ、と言えば良いように思います(し、もしそうなのだとしたら、それに合わせた測定法を使うのが理に適っていると思います)。
ご発表の中でいろいろと私には意味不明(不明瞭)な言葉遣いがありましたので(たとえば、私と武藤先生とでは、もはや「心理学」が意味していることも違いそうです)、それがどのような意味なのかをまずは明確にしてからでないと、なかなか答えづらいというのが正直なところです。
なお、「意味不明」については大谷弘『ウィトゲンシュタイン明確化の哲学』をご参照ください。

個別の質問

  • 言語ではない行動指標による心理測定は可能か?

発表の最初にお伝えしたように、「測定」は不可能だと思っています。なので、答えとしては「不可能」です。ただし、この「心理測定」を「心を理解すること」という意味で解釈するのであるとしたら、これも発表内でお伝えしたように、「見聞きすれば心を理解できる」ので、行動から心を理解することも可能です。
ただし、このことは、武藤先生のご想定されている「行動指標による心理測定」とは違うと思います。行動指標による心理測定の例として武藤先生は、「マグニチュードが頭の中で表現されている」と仰っていましたが、「頭の中で表現されている」というのが私には意味不明(不明瞭)です。どういうことを言わんとしているのか明確にしていただかないと、(ふたたび)答えづらいというのが正直なところです。なお、このような物言いは、武藤先生が直後に仰っていたように「心理学コミュニティが合意している規準に基づいてそういうものと解釈する」という心理学者の説明ゲームにすぎないように(今のところ)私には思えます。

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