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村上春樹『色彩を持たない〜』をフィンランド目当てで読む

村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読了した。2013年刊行の本を今になって手に取ったのは、「登場人物がフィンランドに行くらしい」と、北欧語書籍翻訳者の会さんのnoteで目にしたからだった。



わたしとフィンランドと村上春樹

村上春樹の本を読むきっかけをくれたのは、フィンランドだった。
CIMOプログラムを通じた留学中に、クラスメイトのルーマニア人が「ハルキ・ムラカミの本を読んだことがあるよ」と話しかけてくれたことがあった。多国籍な学生が集まる場所では、相手の出身国の文化を会話の糸口にするのはよくあることだった。

わたしが驚いたのは、彼女がその本をルーマニア語で読んだことだった。彼女が驚いたのは、わたしが村上春樹の著作を一冊も読んだことがないことだった。

フィンランドを去ったあと、あちらこちらをフラフラとして、帰国するやいなや村上春樹の本を読み漁る……ということにはならなかった。『ノルウェイの森』を手に取るまで、さらに5年の歳月が必要だった。
しかし、「自分の知っている日本といえば、ハルキ・ムラカミだ」という思いやりによって始まった会話のことは、頭の片隅に残り続けた。


たしかに主人公はフィンランドへ行ったが、

話は『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に戻る。
たしかに主人公・つくるはフィンランドへ行った。けれど、そこへ行く必然性はあまり感じられなかった。必然性のない場所としてフィンランドが選ばれたのかもしれない、とキクチは思った。

もっとフィンランドの街や文化の描写があるのでは、と身勝手な期待をしていたので、そこは拍子抜けした。物語の終わり方は遠藤周作の『深い河』を思い出すような余韻があり、好みだった。


正しく孤立する、ということ

読み進めるうちに、ふと手が止まる箇所があった。過去の記憶が勝手に浮かび上がってくるような感覚。それは極めて個人的で、具体的な思い出だった。

主人公・つくるが、ヘルシンキのピッツェリアでひとり食事をとるシーン。物語は終わりに近づき、いよいよつくるが自身の過去と対峙するうえで、一番重要な人物に会いに行く前夜のことだ。

その気取りのないピッツェリアは家族連れや、若いカップルでほぼ満席だった。学生たちのグループもいた。みんなビールかワインのグラスを手にしていた。多くの人が遠慮なく煙草を吸っていた。見回した限りでは、一人でアイスティーを飲みながら黙々とピッツァを食べているのは、つくるくらいだった。

人々は大きな声で賑やかに語り合っていたが、聞こえてくる言葉はすべて (おそらく) フィンランド語だった。テーブルについている全員が地元の人々のようで、観光客らしき姿は見当たらなかった。彼はそのときになってようやく、自分が日本を遠く離れ、外国にいるのだという事実に思い当たった。どこにいても、食事をするとき彼はだいたいいつも一人だった。だからとくにそういう状況を気にもしなかった。
しかしここでは彼はただ一人であるというだけではない。二重の意味で一人なのだ。彼は異邦人であり、まわりの人々はみんなつくるには理解できない言葉で語り合っている。

それは日本で彼がいつも感じているのとはまた違った種類の孤立感だった。なかなか悪くない、とつくるは思った。二重の意味で一人であることは、あるいは孤立の二重否定につながるのかもしれない。つまり異邦人である彼がここで孤立していることは、完全に理にかなっている。そこには何の不思議もない。そう考えると落ち着いた気持ちになれた。自分はまさに正しい場所にいるのだ。

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 2013年, 259p


「自分はいま、正しく孤立している」

それまで漫然と胸中を漂っていた感情にわたしが言葉を与えることができたのは、スロヴェニアの首都リュブリャナのレストランだった。薄曇りだが、天気の良い日だったと思う。わたしも翌日、人に会う約束をしていた。


本当に、"なかなか悪くない"んですよね。あの一人ぽっちで、異邦人として存在する感覚は。「そのうち去っていく異質なもの」として与えられる優しさも、厳しさも、関心も、無関心も、うつろいを含めた全てが。

このあまり共感されることのない感情を、突然つくるが語り出したので思わず手が止まってしまった。本書において、このエピソードがクライマックスの一歩手前として差し込まれた描写だったというのは、わが身を振り返る意味でも興味深く読むことができた。

ああいう時間がわたしには必要だったし、つくるにも必要だったのだと思う。混ざり合った共同体化から自らの意思とは関係なく分離し、明確に自分の輪郭を知る時が。


👤

挿絵を描きたくなるシーンがいくつかあったので、モノクロで描いてみようかと思っています。

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