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映画「眠る村」観てきた。

東海テレビ制作によるドキュメンタリー映画眠る村」、ポレポレ東中野の初日で観てきた。

これは内容に興味があったというより「ドキュメンタリーの東海テレビ」の制作だから観にいったやつ。主題となる事件の名前だけは知っていた。袴田事件と並び、冤罪の疑いがある昭和の事件としては特に有名な、名張毒ぶどう酒事件。

三重県と奈良県の境目にある小さな集落の懇親会で、毒入りのぶどう酒を知らずに飲んだ女性たちが中毒で次々と倒れ、五人の女性が犠牲になった。事件の詳細と被告による無罪主張、度重なる再審請求裁判の概要は、事件に関する著作もある江川紹子さんの記事がわかりやすい。

映画は、獄中で無実を訴えながら9回目の再審請求の最中に89歳で亡くなった奥西勝さんの棺が医療刑務所から運び出されるシーンから始まる。黒い車と妹さんの乗ったタクシーが報道陣のフラッシュを浴びて走り去るシーンが冒頭にあって、次は細い山道を、事件のあった集落に向かって車が走っていく場面になる。

山道を抜けると、事件の舞台となった小さな集落があらわれる。どちらも平成終わりの同じ時代の映像のはずなのに、そこだけ時が止まったような、昭和の時代にタイムスリップしたような不思議な感覚にとらわれる村の景色。

1970年代あたりのドキュメンタリー番組っぽい不穏な音楽も相まって、どことなくザワザワする空気感の中、事件と再審請求の経緯、現在の村の日常、事件や捜査に関係した者のインタビュー、弁護団による新証拠の調査といった情報密度の濃い映像が続くが、圧倒的なのはやはり村人たちの現在の日常とインタビュー部分だ。

映画を見ていて、あぁ…って思うのは、出てくる村人の大半が苗字同じ、ってこと。出てくる人出てくる人、犯人とされた奥西勝と同じ「奥西」か「神谷」ばっかりだ。

そのことだけで、そこがどういう村なのか、ある程度わかる。閉ざされた山奥の小さな集落、皆が仲良く助け合って暮らす一方で、誰が誰とデキているのかというような話も村中に筒抜けで、穴兄弟も珍しくない、近代と現代の狭間ぐらいで時が止まったような村。

こういう集落は、日本の中には他にもいくらでもあるんだろうな…と思う。都市部育ちの私にはあまり経験のない、ひとつの生き物みたいな共同体だ。

映像はその「ひとつの生き物としての村」が、共同体の安定に綻びをもたらす「異物」に対し、これを黙殺または排除する方向で極めて強く団結する、という、外部の人間からするとどこかしら異様なしぐさを繰り返し捉える。

村の墓地から村人たちの手で掘り出され、離れた場所にぽつんと置かれた奥西家の墓。石を投げられ村を追われた奥西の母。「ケガレ」を祓うかのように村人たちの手で解体された公民館。かつてはなかった塀で覆われた、主人なき奥西家の建物。

「(殺したのは)奥西しかおらん、奴がやったと言うてるのやもの」「ここはいい村なんよ」…言葉数の多くない老いた村人たちが時折見せる強い主張は、いずれも「ここには(奥西以外の)犯人はいない」という共通した台詞のバリエーションで、その頑なさには逆に不穏な空気が伴う。「(殺人鬼は捕まりその家族も追い出したのだから)この村は平和ないい村だ」という【正常化への強い欲求】が、真相の解明より優先される感じなのだ。

何よりも、ぶどう酒購入から公民館への運び込みまでの(特に矛盾もない)経緯の証言内容を、(警察の強要による)奥西の自白後に突如すべての村人たちが翻し、毒の混入が可能な時間帯を狭めて、奥西以外の犯人がいる可能性の否定にまわった、という流れの不自然さ。

奥西犯人説に都合のいい新証言は、内容的にも無理があるものが多い。三時間近い時間のズレを「勘違いした」「時計が狂っていたと思う」などと皆が言い出し、そのくせ正確な時間は言えない。インタビュアーも繰り返しその矛盾を突くが、途端に「そうだったかな」と言葉を濁し、表情を強張らせる証言者たち。

誰か外部の人間の指示に基づく強引な口裏合わせであれば、時間が経って口を割る人間も出てきそうなものだが、事件を知る高齢の村人たちは怖ろしく口が硬く、墓場まで持っていく気だなという空気が伝わってくる。村の行事における穏やかな表情と、証言の矛盾をつかれた老人たちが突如見せる鋭い否認のニュアンスのアンバランスさは、本人たちの意図とは逆に「彼らには秘密がありそれを隠す強い意思があるのだ」という印象を見る者に抱かせる。

こういう表情や動作のニュアンスは映像でしか掬いあげられないものだと思うし、「表情や行動が言葉を裏切る」瞬間こそが映像によるドキュメンタリーの醍醐味だと思うんだけど、そこを確実におさえていく東海テレビ、流石だなと思った。

あと残ってる五、六人が亡くなればこの事件は消える」という村人の言葉。それと同じぐらいぞっとする言葉は、最新の科学的分析に基づく新証拠をもって挑まれた再審請求が、証拠説明の機会すら与えられず、自白を支持する名古屋高裁によって棄却された奥西の妹がつぶやく「(裁判所は私が死ぬのを待っとるんよ」という言葉だ。

本作では事件の起きた村の人々の「奥西犯人説」への固執と同時に、裁判所というもう一つの【村】の閉鎖性と、科学的証拠を全否定してまでも「解決済み」に固執し、自白偏重主義を決して手放そうとしない意思の強さ、異様さを重ねて提示する。のっぺりとした表情の歴代裁判長の顔と、再審請求の非科学的な棄却理由の連続を見ていると、カフカの「審判」や「」を思い出してしまう。

裁判所というもう一つの【村】の存在の不条理さによって「大昔のよく知らない田舎の村の事件」という多くの観客にとっての他人事が、俄然自分にも関係のある事として立ち上がってくる。

私が映画を見ながら思い出していたのは、息子の小学生時代の「学校村」での出来事だった。学校の休み時間に起きた仲間はずれ事件で、仲間はずれにされた子の親が学校に乗り込んできたことから、「首謀者」特定のため校長教頭を含む教師たちがクラスの子どもたち一人一人に尋問形式の「取り調べ」を行い、自白を強要され「首謀者」にされた子がショックのため不登校になった件。

その子が仲間はずれを主導したと証言した子どもたちの何人かが自分の親に「教師の誘導があった」旨を伝え、クラスの親たちは学校側に経緯説明を求めたけれど、学校はその子の「首謀者」説を撤回しなかった。学校の問題を第三者的立場で解決するとされる自治体の機関は校長らと通じており、我が子を人質にとられている証言者の親たちは同席を拒んだので、学校との話し合いの席で孤立させられたその子の母親も心を病んだ。

自白偏重主義、証言誘導の可能性の否定、加害者とされた子ども一人を生贄にして「解決済み」と言い張る当時の学校の対応は、どれも名張毒ぶどう酒事件での警察や裁判所のふるまいと重なるもので、昭和の時代の山奥じゃなくても【身近なところに村はある】と思う。

自白ばかりを偏重する日本の裁判所の異様さは、「それでも死刑を手放さない」という実情とセットになると碌でもなさが増す気がする。死刑をどうあっても手放さないのであれば、冤罪の可能性は限りなくゼロでなければいけないはずなのに、裁判所のやり方にはそうした努力が感じられないのだ。

事件が起きた集落のような閉ざされた【村】はおそらく日本のあちこちに、あらゆる濃度であって、そういう場所では時には「事件化」されることすらなく、村人たちの中だけの秘密のまま葬られてきた出来事も、実は沢山あるんだろうな…と思う。怖い。でも、そういう村は高齢化と過疎が進み、じきに消えていく。八つ墓村的な時代に逆戻りすることは、おそらくないだろうと思う。

その一方で、科学を無視して自白に頼り、判断を覆すことを頑なに拒む「司法村」は現在も市民の生活の「上位に」存在し続けていて、たぶん今後も存在し続ける。こっちのほうが余計に怖い。守ってくれるはずの存在が守ってくれない怖さ。

今回、東海テレビが事件の真相を暴くことの代わりに【村】というテーマを中心に据えたのは、ひとつの事件の風化を防ぐという目的だけでなく、より多くの観客が「自分にも関係のある話」として事件と裁判を捉え直すことを重視した、ということだと思うし、このテーマはこの先も深く掘り下げて取材を続けて欲しいなと思った。

裁判所部分の取材に関しては、現役裁判官への取材が事実上不可能なので、元裁判官や元検事への取材に留まる。今後定年を待って関係者への取材ができるのかどうか。難しい所とは思うけれど、頑張ってほしい。

裁判所の抵抗によって司法制度改革が骨抜きにされる経緯は、このへんの記事で読める。参考までに。

エリート裁判官たちはこうして自分たちの利権を守った(岩瀬達也)

裁判というのはいつ巻き込まれるかわからないもので、そこで救われなければ(他国に亡命でもしない限り)デッドエンド。誰にとっても他人事ではない。

東海テレビは1970年代からこの事件と裁判の取材を開始、最初のドキュメンタリー番組を1987年に放映してから30年にわたり取材と番組制作を続け、本作はこの事件絡みでは実に7作目にあたる。それだけでもかなり胸熱。

ディレクターも三世代目に突入した。最初に取材を始めたディレクター門脇さんは現在はOBで70代。今回の作品のディレクターは、働き盛りの50代の斎藤さん、30代若手の女性ディレクター鎌田さんの二人だ。

鎌田さんは去年出産し現在は育休中だそうで、初日舞台挨拶には見えられなかったのだが、映画にはふんわりした雰囲気で村人たちの懐にスッと入りこみながら、知らぬ顔で厳しい質問を投げかける鎌田さんの姿が何度か映っていて、バトンをついだ若い彼女がこの先どこまでたどり着けるのか、すごく楽しみだなと思う。

これだけ長期間にわたり何度も取材と番組放送を続けていると、警戒されて村人への取材はどんどん難しくなるのではないかと思い、質疑応答で質問してみたんだけど、「むしろ時間が経過して奥西さんも亡くなったことで、村の人たちも少し安心したのか、以前より取材に応じてくれるようになったという感じがする」という意外な答えが返ってきた。

あと、三重は一応東海テレビの放送圏内なんだけど、三重では大阪の関西テレビを見る人が多くて、おじいちゃんおばあちゃんは遠くまで映画を見に行くこともしないし、実際のところあまり番組は見られていないようだ、という話もあった。

取材班は村に通って農作業を手伝ったりしながら、村人がカメラの前で語ってくれるまで、根気よく信頼関係を築いていく。農作業だけやって、一言もコメントをとれずに帰ってくることもあるそうだ。あるディレクターには一切口を開かない人が、別のディレクター相手には話をしてくれることもあり、とにかく粘り強く通うしかない、という。

「一言も喋ってくれなかった人が、まる一日農作業をした後に『饅頭食うか』と初めて家にあげてくれるような時に、ドキュメンタリーをやっている醍醐味を感じる」という斎藤監督の話に、公開作品では映像化されていない長い長い取材の結果としての作品の力強さの源を感じた。

ドキュメンタリーには、クロード・ランズマンとかマイケル・ムーアみたいにずけずけと土足で現場に上がり込んでいって答えにくい質問をぶつけ、無防備な一般人から素の表情やコメントをかっさらってくるやり方と(このタイプはゲスい取材をするので、隠しカメラなんかも使う)、現場に地道に足を運んで取材対象の信頼を得て、時間かけてじっくりコメントを引き出すタイプの作品があって、本作「眠る村」は後者のタイプのドキュメンタリーの白眉という感じがする。

私は基本、この2パターン以外はドキュメンタリーとは思ってないので(取材対象にマイク向けて好きなように喋らせた映像と綺麗な絵を切り貼りしたようなのは、「宣伝映画」であってドキュメンタリーじゃない)、こういう「ちゃんと取材したドキュメンタリー」が見られるのは嬉しかったし、東海テレビ見られる地域の人は羨ましいな…と思った。NHKは腑抜けになったし、関東だと昔は良作を連発していたフジの深夜のドキュメンタリー枠も最近はあまり話題を聞かない。

ただ、こういう「地道に取材系」は、お蔵入りするケースも多く、視聴者が見て推さないと予算もとれず、作られなくなってしまうので、とにかく多くの人に見てもらえるといいなと思う。ドキュメンタリー映画好きだけじゃなく、(不謹慎だけど)ミステリー好きの人が見ても興味をそそられる内容だと思うので、お近くの方は是非、お出かけ下さい。事件にもともと興味がある人もそうじゃない人も、発見があると思う。

なお、東海テレビ取材班による「名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の半世紀」という書籍もあるので、映画館が遠い人はそちらから入るのもアリかも。作品はこれから愛知、群馬、北海道、大阪、広島、宮崎など、全国をまわる予定だ。

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