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質問:意味するものとされるものは常に一致していますか

定期的なアウトプットのために、田中未知さんの『質問』からランダムに選び答えるシリーズをやってみたいと思います。とにかく書くことを継続させるのを目的に、量にはあまりこだわらず、思いつくものを書いていくようにします。月に何度か更新できたらいいなあ。

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2020-04-14「意味するものとされるものは常に一致していますか」

言葉が発された瞬間、発話者の頭の中で意味するものとされるものが一致しているーわたしたちはそういうことばを書くように求められている。でも本来意味するものとされるものの関係は不安定なもので、時間をおいてもなお合致しているという保証はない。受け手の存在を抜きにしても、ことばの意味は自在に変化していく。それに、ことばによって思考が導かれるとすれば、むしろ、合致していないほうが好ましい人間のあり方なのではないか。最近、そういう曖昧さに惹かれている。

詩の読み方がずっとわからなかった。様々な意味に分散していくことばの集合をどう受け止めていいのか戸惑ってしまう。和歌とか俳句とかに、正しいよみかたがあるような教わり方をしたのも原因かもしれない。はっきりとした情景が浮かばないことに、もどかしさを感じていた。

しかし、先日『その姿の消し方』(堀江敏幸)を読んで、はじめて無限に広がる意味の関係性を追いかける楽しみを知った。主人公は、古物市でふと手にとったポストカードに書かれた詩の作者を追う。姿の見えない詩人の姿がぼんやりと明らかになるにつれて、詩も再解釈されていく。その複層的な読み方はとても冒険的で、心躍る体験だった。わからなさを楽しみ、じっくりと顔を突き合わせる時間がもっと必要だ。ふと、小学生のときオリジナルの詩集を何冊も作っていたことを思い出す。

ことばにはどうしても苦手意識がある。芝居がぜんぜんうまくならなかったのは、ことばとちゃんと向き合わなかったからだろうと今になって思う。自分の身体を媒体として意味をつなぐ。身体表現とはまた違って、「自分のからだー自分のことばー他者のことばー他者のからだ」といくつもの層があるように感じられて、他者のからだまでの距離がなかなか縮まらなかったのだ。それがよくわからないまま台本を読んでいると、だれの言葉でもない台詞が宙を舞っていてむなしくなる。このむなしさから抜け出せたことは、残念ながらほとんどなかった。ことばを放つということに、自我があまりにも関わりすぎていたのかもしれない。

言葉は、だれかがだれかから借りた空の器のようなもので、荷を積み荷を降ろしてふたたび空になったとき、はじめてひとつの契約が終わる。ほんとうの言葉は、いったん空になった船を見つけて、もう一度借りたときに生まれるのだ。(『その姿の消し方』堀江敏幸 p. 58)


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