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隠された自分と出会うために読む一冊 ”私とは何か 1/4”

「個人」から「分人」へ

 はじめましての方も、そうでない方も、今日この文章を読んでくださってありがとうございます。これから平野啓一郎さんの著書「私とは何か」を手がかりに、私たちのアイデンティティについて一緒に考えていきたいと思います。今回は第1部として、まずこの本の概要や背景、それから「私」という存在をめぐる古典的な視点から現代に至るまでの流れを、できるだけ負担にならないようにやわらかくお伝えできればうれしいです。初めての方にも分かりやすいように、専門的な話はなるべくかみくだいて説明しますので、少しでも興味を持っていただけたら次回以降も続けて読んでいただけると嬉しく思います。

さて、平野啓一郎さんは小説家として知られていますが、この「私とは何か」はエッセイ的なスタイルで書かれており、特に「分人」というキーワードがよく取り上げられます。分人とは、人がさまざまな場面で異なる側面を持って生きることを肯定的に捉える考え方です。それは複数の人格やキャラクターを演じ分けるようなものとも少し違い、むしろ人は誰もが多面的で、相手や環境によって自然と異なる「自分」が現れるという理解に基づくものです。こうした視点は、伝統的に「私」というものを一枚岩で捉えがちだった近代の哲学思想に一石を投じています。どこかで感じたことがある「自分の中のいろいろな面」が肯定されることで、息苦しさや罪悪感から解放される人もいるのではないでしょうか。

第1部では、以下の三つの大きな話題を扱います。第一に、「私とは何か」が生まれる背景として、近代哲学から連綿と続いてきた自我論の概略を振り返ります。第二に、平野さんの「分人」概念に似た問題意識を抱えていた可能性のある思想家たちについて触れてみます。第三に、この本のテーマが私たちの日常とどう関わり得るのか、実際の例を交えながら考えます。では順番に見ていきましょう。

近代哲学と「私」の輪郭

 「私」とは何かという問いは、哲学の歴史の中でもずっと重要視されてきました。17世紀のフランスの哲学者デカルトは、有名な「我思う、ゆえに我あり」という言葉で知られています。これは、どんなに疑おうとしても、疑っている主体である「私」そのものを消すことはできないという主張でした。デカルトの立場は、理性に基づく確実性を求める姿勢の延長線上にあります。近代ヨーロッパ思想は、この「私」の主体性を中心に据えながら発展してきたともいわれます。

デカルト以降、多くの思想家や哲学者が「私」や「自我」を問題にしてきました。たとえば18世紀のイギリスの哲学者ジョン・ロックは、人間のアイデンティティとは記憶によって規定されるという議論を展開しました。ロックは、人間が自分自身であることの証左を「記憶」に求め、その連続性こそがアイデンティティを保証すると考えました。ところが、時間が経つにつれて記憶が曖昧になると、アイデンティティがどこまで保たれるのかという疑問が浮かび上がります。これには当時からさまざまな反論や補強意見がありましたが、いずれも「私」が一体どこにあるのかを示すのはとても難しいという事実に行き着きます。

一方で、19世紀から20世紀初頭にかけては、フロイトの精神分析の観点から自我の意識下にある無意識の働きに注目が集まりました。人間は必ずしも自分の心のすべてを把握しているわけではなく、意識できない衝動や欲求が人格形成に大きく影響しているのだという考え方です。フロイトが示したのは、自我が一枚岩ではない可能性の一端であり、そこから派生してユングなどが「集合的無意識」などの概念を提唱するに至りました。こうした流れは「私」の単一性に疑問符をつける大きなきっかけとなり、あらゆる人間の内面には多層的な部分があるという解釈が広まります。

このようにして近代から現代に至るまで、人間の自我やアイデンティティは一見揺るぎないように見えつつも、実はその中心がどこにあるのかすら曖昧だという議論が繰り返されてきました。こうした歴史の上に「私とは何か」の問いが立ち現れているのです。

分人をめぐる諸思想との対比

 平野啓一郎さんは「分人」という概念を示すことで、私たちは環境や相手に応じて複数の「私」を持ち、それぞれが独立してもいいのではないかと述べています。これまでの伝統的な自我論は、一つの核となる「自我」があって、そこからいろいろな感情や行為が派生するというモデルを想定していました。しかし、分人の考え方では、もともと自分の中には多面的な要素があり、周囲との関係の数だけ自分がいるという見方をとります。

実はこうした捉え方は、必ずしも新しいとはいえない面もあります。19世紀末から20世紀にかけてドイツで活躍した哲学者のニーチェも、人間というものを単なる固定的な存在とは見なさず、「複数の力のせめぎ合い」だと捉えていました。ニーチェは「神は死んだ」という有名な言葉で象徴されるように、伝統的な価値観や道徳を覆し、人間そのものが持つ「生の力」を強調しました。そこでは、私たちが一貫して一つの道徳基準や人格を維持できるとは考えていなかったと解釈することもできます。むしろ人間は流動的で多元的な存在であり、特定の状況や関係性の中でしか「私」は現れ得ないという発想は、ニーチェからもある程度引き出せるかもしれません。

さらに20世紀後半から現在に至るまで、ポストモダン思想の広がりや情報社会の到来によって、私たちの生き方や人間関係は一層複雑になりました。オンラインとオフラインを行き来するような日常のなかで、多様な「自分」を使い分けるのが当たり前の時代です。たとえばSNSにおける自己表現はリアルな場と微妙に異なり、それぞれのコミュニティで異なるキャラクターを演じることがあります。しかし、そこに罪悪感を抱くのではなく、自分の中にはそもそも多面的な要素があり、どちらも自分に違いないと理解できるなら、日々のストレスはかなり軽減されるように思います。

こうして考えると、平野さんの提示する「分人」論は、分断された自分をあえて統合しようとせず、「それぞれが本当の自分」であるという認識をもたらす点で新鮮です。これは哲学や心理学の領域では部分的に論じられてきたこととも響き合いますが、「分人」というわかりやすい呼び方によって多くの人が実践的に受けとめられるようになったのではないでしょうか。

日常生活への応用と問いかけ

 では、この「私とは何か」というテーマや「分人」の考え方が私たちの日常にどう関係しているのか、少し想像してみたいと思います。日々の仕事や人間関係で「本当の自分」と「周囲に合わせようとする自分」の間で悩むことはありませんか。たとえば、仕事の場面では理性的で強気な面を見せなければいけないことがある一方、プライベートでは穏やかで内向的な面が強いという人もいるかもしれません。どちらが本当なのかと葛藤する方もいるかもしれませんが、「分人」の考え方をとるならどちらも正真正銘自分の一部なのです。

この視点を取り入れるメリットは、自分自身を一つの固定的なアイデンティティに縛りつけなくなることです。いわゆる「自分探し」で苦しんでしまう背景には、一貫したアイデンティティを確立しなくてはならないという思い込みがあるように見えます。しかし、実際には人が場面によって異なる要素を発揮するのは自然なことで、それこそが私たちの豊かさともいえるのではないでしょうか。就職活動で自己PRをするとき、家族や恋人と過ごすとき、インターネットで情報を発信するとき。それらすべての場面で常に同じ自分を保ち続けるのは不可能に近いですし、それができないと感じて落ち込む必要もないはずです。

ここでもう一つ考えたいのは、「分人」という概念の限界や、別の視点もあるという点です。多面的な自分を認めるのは心地よいですが、その一方で他者との間に責任や誠実さが求められることは変わりません。たとえ複数の自分を持っているとしても、各場面で自分や相手に対する礼儀や思いやりは必要ですし、その連続性を絶ってしまえば信頼関係が損なわれるおそれもあります。ですから、「分人」を肯定することで人生が楽になる可能性がある一方、常に「どんな関係性にどんな自分を投入しているのか」という点については意識しておいたほうがいいかもしれません。

あなたはどう感じるでしょうか。人との会話やSNSの投稿の中で、自分が異なるキャラクターになっていると感じることはありますか。それは偽りなのでしょうか、それとも本来の多面的な一面なのでしょうか。もしその辺りに興味があるときは、平野啓一郎さんの「私とは何か」を読んでみると、自分が抱えていた疑問が言葉になるかもしれません。少しでも気になった方は、ぜひこの第1部で感じたことを踏まえつつ、次回以降も読んでみてください。さらに深い視点で「私」というテーマを考えるためのヒントが見つかるかもしれません。

これで今日は締めくくりとしますが、続きも読んでいただけるとより一層この本の奥行きと楽しさを共有できると思います。次回はより多角的な事例や異なる学問分野との関わりも扱いますので、楽しみにしていてください!



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