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監視の時代に「わたし」の言葉を守るには "1984 1/4"

1984をめぐって

今日はジョージ・オーウェルの「1984」をめぐるお話を一緒に考えていきたいと思います。といっても、難しそうな文学作品をひたすら解説するのではなく、わたしたちの日々の暮らしや決断にどうつながっているのかを、ゆっくり探っていくイメージです。この第1部では「1984」が生まれた背景や、その中心にあるテーマが、なぜいまも色褪せず、私たちの人生や仕事のあり方まで照らし出すのかをお伝えします。気軽に読み進めていただきながら、次回以降も続けていただけたらうれしいです。いつかもっと深い学びに踏み込みたくなったら、ぜひ最後までお付き合いください。

一つめの前置きとして、「1984」という作品名を目にしたことはあっても実際には読んでいない、または名前すら聞いたことがないという方も少なくないのではないでしょうか。出版は1949年ですから、ずいぶん古い作品と感じるかもしれません。ジョージ・オーウェルはイギリス生まれの作家で、他にも「動物農場(Animal Farm)」などで知られています。彼の作品は風刺が効いていて、当時の政治や社会への批評をこめたものが多く、「1984」もその一つです。もっとも、ただ「昔の独裁国家を批判した本」という古いイメージで片づけてしまうには、あまりにも示唆に富んでいるといわれます。なぜそこまで言われるのか。本章では、その理由をひとつひとつ、なるべく日常の視点から見つめ直してみたいと思います。いつか本作を読むきっかけになるかもしれませんし、あるいは読んだことがある方でも、新たな発見につながるかもしれません。

オーウェルと時代背景が映し出すもの

 ジョージ・オーウェルが「1984」を書いたのは第二次世界大戦後の1940年代後半です。戦争が終わってほどなく、ヨーロッパや世界各地の国際情勢は、すでに次なる緊張状態をはらんでいました。歴史的に見ると、戦時中から戦後にかけて独裁体制の恐ろしさが顕在化し、さらに社会のあり方や情報の管理・操作などが新たに問題視される時期でもありました。オーウェル自身はイギリス人として、自国の政治状況やソビエト連邦などの全体主義的体制にも強い危機感を抱いていたと言われます。

そのような時代背景から生まれた「1984」には、あらゆる情報が支配者によって改変され、人々の思考そのものがコントロールされている世界が描かれます。作品の中では、国民が常に監視され、言葉の使い方まで厳しく統制されるのです。もっとも有名なキーワードとしては「ビッグ・ブラザー(Big Brother)」の存在や、「ニュースピーク」と呼ばれる新しい言語体系があります。ビッグ・ブラザーが象徴するのは、言わば絶対的な権力をもつ指導者像。ニュースピークとは、不要な語彙を削除したり、抑圧に都合のいい形へと改変されたりすることで、人々が自由に考えたり批判の言葉を発したりする余地をなくしていく言語です。

一見すると、そんな社会は極端でフィクションのように思えるかもしれません。しかしわたしたちは、情報の取得先が偏ったり、SNSで流れる言葉の波に飲まれて違和感を抱かなくなったりする経験はないでしょうか。特定のワードや言い回しが、いつの間にか都合のいい方向へ拡散されたり、あるいは急に攻撃的な言葉が広がったり。直接的には誰もが「1984」のような極端な全体主義国家に生きているわけではないとしても、情報の扱われ方によって思考が導かれ、気づけば何かを見失っているという不安は、今の私たちの世界にもどこか響いてくるはずです。

このように「1984」は、オーウェル自身が目の当たりにした戦時下や独裁の実態を背景に生まれた物語であると同時に、現代の情報社会、監視技術の発展、メディアの多様化の中でも繰り返し話題にのぼります。「過去のディストピア小説」として読むだけで終わるには、あまりにもその示唆が切実で、むしろいま読めばこそ得られるものがあるのです。

自由とコントロールをめぐる問い

 「1984」では、登場人物たちは監視下にあることを常に意識し、自分がどこまで自由に考え、自由に行動していいのかわからなくなっています。思考すら監視されているような閉塞感がありますよね。ここで注目したいのは、わたしたちの現実でも、目には見えない形で何らかの「コントロール」を受けているのではないか、という問いです。

たとえばフランスの哲学者ミシェル・フーコーは「監獄の誕生」などの著作で、近代社会における権力のはたらきが、刑務所や学校などの制度を通じて人々の内面にまで影響を及ぼすことを論じました。大掛かりな独裁政治とは異なる形でも、わたしたちは他者の目や社会の規範を気にし、それに合わせて行動の枠を自分で狭めてしまいがちです。SNSにおける承認や、職場での評価、あるいはコミュニティの空気読みによって、いつの間にか自由な言葉を失っているというのも、少し大げさに言えば「ニュースピーク」的な現象かもしれません。

そしてもう一人、ドイツ系アメリカ人の政治思想家ハンナ・アーレントは「全体主義の起原」という大著を著し、全体主義的な体制で何が起こるのかを検証しました。そこでは「思考の停止」が一つのキーワードになります。つまり、情報を疑わず受け取ることで、思考力を失い、社会全体がどのように暴走していくのかが描かれています。「1984」でも、国が言葉の意味を塗り替え、歴史を改変し、国民の関心をそらすことで人々を操作する様子が克明に描かれます。実際に自由を奪われているのかどうかを考える余裕さえ奪われていく。そこにゾッとする冷たさがあるのです。

このように監視やコントロールが強い社会では、人々の思考がパターン化され、それに抗う人たちがごく少数派となる恐れがあります。自分にとっての「自由」「考える権利」「変化を求める気持ち」といったものが日々の生活のなかで摩耗していないかどうかは、あらためて自問したいテーマです。「1984」が私たちに突きつけてくるのは、単なる国家的な抑圧だけでなく、私たち自身が自分に仕掛けている思考コントロールかもしれないのです。たとえば「こう言ったら嫌われそうだからやめておこう」「自分には関係がないから何も言わないでおこう」といった具合に、知らないうちに内面で繰り返される小さな遠慮が、やがて大きな沈黙につながることもありますよね。そう思うと、現実のわたしたちも「1984」の世界とかけ離れているとは言い切れません。

日常から見るディストピアの入り口

「ディストピア」とは理想郷(ユートピア)の対極にある、恐ろしく悲惨な社会を指します。一般的には政治的抑圧や管理が極端になされた世界を思い浮かべることが多いですが、何もそれは古い独裁政権だけの話ではありません。現代ではむしろ、高度化したテクノロジーと結びついて、監視とコントロールが以前とは違う形で進行する可能性があります。

たとえば顔認証技術やAIによるビッグデータ解析は、管理やマーケティングに活かされる反面、個人情報の扱いによっては「監視社会」が実現してしまうかもしれません。わたしたちのインターネット上での行動履歴が集積され、そこから好みや思想の傾向が分析されている現実を考えると、いかにテクノロジーと社会規範を調整しながら使いこなすかが大切になってきます。「1984」の世界では、テレビ画面を通じて人々の行動や表情まで常に見張られていましたが、いまの私たちの日常でもスマートフォンやパソコンなどを通じて、どこかで誰かがアクセスできる情報がかなり多いと言えます。もちろん利便性や新しい可能性が広がる一方で、どのように使い方をデザインするかで世界はユートピアにもディストピアにもなりうるのです。

ここで、ひとつ想像してみてください。もしあなたが手にしているスマートフォンに、絶えず誰かがアクセスしているかもしれない、そう思って行動や会話を変えてしまったとしたら。そのとき、あなたはどこまで自分の言葉を保てるでしょうか。あるいは逆に、誰かに見られているかもしれないからこそ、より誠実にふるまおうと思うでしょうか。ちょっとした違いですが、こうした意識の変化が少しずつ積み重なることで、大きな社会変容へとつながる可能性があります。そういう意味でも、現実とフィクションを分けて考えすぎるのではなく、むしろ両者の中間に生まれるグレーゾーンを見つめるのが「1984」を読む大きな意義といえるのです。

1984の深みへ

 この第1部では、オーウェルの「1984」がどういう時代の空気の中で生まれ、いまも色褪せずに語られ続ける理由を大まかに振り返ってきました。監視やコントロールの問題は、昔のどこか遠い国の話というだけでなく、テクノロジーやSNSを通じてわたしたちの日常とも隣り合わせにあるテーマです。たとえ全体主義国家に生きていないとしても、情報との向き合い方によっては、気づかないうちに自分の思考が「ニュースピーク」的な制限を受けているかもしれないのです。

次回の第2部では、「1984」が描く監視社会の根幹や、人々がどのように思考し、疑う力を失っていくかについて、もう少し深く踏み込んでみたいと思います。それはわたしたちの職場やコミュニティ、あるいは心の内側にも通じる問題を照らし出すかもしれません。いまここで一度立ち止まって、自分は本当に自由に考えているのか、誰かにとって都合のいい解釈に塗り替えられていないか。そういった問いを携えながら、この先の話もゆるやかに追いかけていただけたらうれしいです。次回も「1984」のエッセンスをもとに、わたしたち自身の生き方にまで踏み込むような対話を続けたいと思いますので、もし少しでも興味が湧いた方は、この先の展開もどうぞお楽しみにしていてください。



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