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諸子百家の地平から見る荘子の登場とその歴史的意義の再考 "荘子 1/4"
戦国時代という混沌
古代中国の戦国時代(紀元前5世紀頃から紀元前3世紀頃まで)は、周王朝の権威が大きく揺らぎ、秦や魏、趙などの諸侯たちが勢力を競い合った時代として知られています。人々の生活は頻発する戦乱と徴兵、領地の統合や分裂によって落ち着かず、政治・軍事の分野のみならず経済活動や社会構造も激変の連続でした。このような不安定な時代に、人間がどう生きるべきかを根底から問い直す思想家が続々と登場したことを、中国思想史では「百家争鳴」「諸子百家」と総称しています。儒家の孔子や孟子、法家の商鞅や韓非、そして道家の老子・荘子など、それぞれが異なる観点から「社会の混迷」へ理論的・哲学的な処方箋を示そうとしたのです。
その中で、荘子という人物は老子の流れを汲む道家の思想家として位置づけられています。老子が『道徳経』という短いテキストで「道(タオ)」と「無為自然」を説いたのに対し、荘子はより寓話的かつ物語的な筆致で、同じく「道」を基盤にしつつも、より人間のリアルな感情や行動の在り方に踏み込んで語ったとされています。とはいえ、実際に荘子と名乗る人物がどこまで歴史上に実在したか、彼の門弟や後継者がどのように著作を編集したかは、依然として学問的論争の余地があります。文献学的には、『荘子』という書物は「内篇」「外篇」「雑篇」の三部から成り、伝統的に内篇が荘子本人の思想を最も純粋に伝えているとされてきましたが、その各章の真の執筆者や成立時期をめぐっては諸説あるのです。
しかし、通説の範囲内で言えることとしては、少なくとも内篇(「逍遥遊」「斉物論」「養生主」「人間世」「徳充符」「大宗師」「応帝王」の7章)は、荘子やその周辺の門弟たちの手になる核心思想が色濃く反映されていると考えられます。ここで注意したいのは、「すべてを荘子本人が書いた」と断定できるほどの史料的裏付けがあるわけではないことです。儒家や法家の著作でもしばしば見られるように、古代中国の書物には複数の編集者の手が入ることが当たり前でした。ゆえに、内篇が「荘子本来の思想を凝縮している」と理解するのはある程度の学界の共通認識である一方で、それが文字通り「荘子単独の著作」であるかは歴史学的に確証がない、という点をあらためて認識しておくことは重要です。
荘子の教え
それでもなお、戦国時代の混乱を背景に、荘子が説いた「既存の価値観の相対化」や「自由な生」を追い求める態度は、多くの人々に深いインパクトを与えたと推測されます。激しい戦乱に明け暮れる日々の中、「どの国に仕えれば自分は安全なのか」「どうすれば権力者に重用されるのか」といった功利的・世俗的な悩みが、人々の主な関心事になりがちでした。しかし荘子は、そうした社会的成功をめざす生き方そのものを相対化し、「より本質的で束縛の少ない在り方」を提示したのです。これこそが、戦国時代の激動に飲み込まれていた大勢の人々にとって、新鮮かつ挑発的な視点として映ったのではないでしょうか。
このように考えると、戦国期の思想界において、『荘子』は「現実から逃避する空想」ではなく、「現実の価値基準をひっくり返す革命的な思考」として機能した可能性が高いと言えます。儒家のように「仁義・礼」の確立による秩序回復を説くでもなく、法家のように「法と権力」による統制を追求するでもなく、むしろ「そもそも、なぜ社会のルールや常識に自分を閉じ込める必要があるのか」を問いかけてくるからこそ、荘子の思想はある意味で「危うい」ものでもありました。
反骨の書から自由思想へ
後の時代、秦や漢の帝国体制の確立後においても、思想弾圧の動きが起きるたびに、荘子は「反骨の書」として扱われた歴史がある程度推測されています(焚書坑儒の広範な影響は諸説ありますが、『荘子』が実際に焼かれたかどうかは史料不足で断言できません)。
いずれにしても、こうした「戦国の混迷を背景に生まれた自由思想」という歴史的な位置づけは、現代の私たちが荘子を読む際の大きなヒントになります。「何を信じて行動すべきか」「どんな生き方をめざすべきか」が複雑化・多様化している現代社会で、荘子の問いかけは非常にエッジの効いた刺激を与えてくれるからです。まずは、そんな荘子の世界観をもっと具体的に理解するために、内篇を中心としたテクスト構成と、そこに流れる主要テーマを今日から深く掘り下げていきましょう!