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あなたが知らぬ間に生まれる監視と同調の空気 "1984 2/4"

監視と疑いと束縛

 前回の第1部では、「1984」が書かれた歴史的背景や監視・コントロールの問題をざっくりとお話ししました。今回はもう少し踏み込みながら、「なぜ人々は疑うことをやめてしまうのか」「どうやって監視のしくみが私たちの思考を縛りはじめるのか」という点を探っていきたいと思います。前回も少し触れましたが、フィクションの中の管理社会が、実は私たちの身近なコミュニティや働き方、さらには自分自身の心の内側にも存在していると想像すると、まったく他人事ではないように感じられますよね。ここでのお話を通じて、「1984」の世界で描かれている閉塞感が、どうやって日常の中に忍び寄るのかをいっしょに考えてみましょう。もし興味がわいたら、次回以降も読んでいただけるとうれしいです。

監視のしくみが生む「空気」

 「1984」では、大きな権力をもつ党による監視システムが社会全体を覆っています。市民がどこにいて何をしているか、場合によっては考えていることまで把握されてしまう。そこまで極端ではないにせよ、私たちの日常にも、ふとしたところに監視や記録の網が張り巡らされていると感じる瞬間がありませんか。たとえば防犯カメラの増加や、SNS上での発言ログの蓄積。さらに、スマートフォンの位置情報サービスやネットの検索履歴などもまた、いわゆる「ビッグデータ」として集められ、分析対象となっています。

監視のしくみそのものは防犯や利便性の向上にも役立つ一方で、人々の内面に「見られているかもしれない」という空気を生じさせます。実際に誰かが常時チェックしているかどうかはさておき、見られているような気がすることが行動を左右するのです。前回取り上げたミシェル・フーコーの理論を思い出してみてください。フーコーは「パノプティコン」という刑務所モデルを参照しながら、人々が「常に監視されているかも」と思うだけで自律的に行動を抑制し、権力側の狙いどおりに振る舞うようになる仕組みを指摘しました。これが「1984」の世界観の根底にも流れています。

たとえば、匿名だと思っていたはずのSNSアカウントであっても、実は簡単に身元が特定され得る時代ですし、後で「ログとして残るかもしれない」と思うと、発言を差し控える人は多いかもしれません。また、誰かに見られているような気がしていると、それがいつしか無言のルールや「空気」として浸透し、みんなが黙りこみやすくなることもあります。一度その空気ができあがると、「少し違う意見を言ってみようかな」と思った時に「でも大勢がそう考えているから」と躊躇してしまう。こうして集団全体が、あらかじめ設定された方向に向かってしまうことがあります。

「1984」ではビッグ・ブラザーというカリスマ的存在が常に国民を見守る象徴として掲げられていますが、実際にはその「恐怖の象徴」が、本当にそこにいるかどうかを超えて、人々に「監視されているかもしれない」という感覚を与え続けることが最大の効果を生み出します。つまり、常に何者かの視線を意識するあまり、自分の行動や思考をあらかじめ自己規制してしまう。現代的にいえば、防犯カメラやオンラインでのデータ追跡、そしてフォロワーやフレンドの目線が絶えず「監視の空気」を作り出し、自由な発想や大胆な行動をためらわせるかもしれません。ここには「空気」そのものが一種の監視装置として働くという皮肉がありますよね。

自由な思考を奪うプロセス

 前回も少し触れましたが、「1984」ではニュースピークという人為的な言語操作が大きなテーマとなっています。単語や表現を削ぎ落としていくことで、そもそも批判的な思考を表現できないようにしてしまう。これによって人々は「批判」や「異議」を言葉として形にすることができなくなり、その結果、自分の中に芽生えそうな違和感や疑問をうまく言葉にできなくなるのです。

私たちの社会でも、何かを考えたり感じたりしても、共有しづらい空気や、言葉のレパートリーの乏しさによって、いつしか表明するのを諦める場面があるかもしれません。「そんなこと言ったら角が立つかも」と萎縮するあまり、せっかく浮かんだ新しい発想が、自分の中で立ち消えてしまう。こうした萎縮は「監視されるかもしれない」という外的要因だけでなく、周囲との調和や自己検閲など、内面的な理由からも生じます。

ここで、ドイツ出身の哲学者ハンナ・アーレントの指摘がまた役に立ちます。アーレントは「全体主義の起原」という著作で、全体主義とは個人の思考を根こそぎ奪ってしまう構造をもつ体制だと論じました。そこでは人々がただ従うだけでなく、やがて疑うことすらしなくなり、むしろ自分から積極的に体制に協力するようになる恐ろしさが描かれています。私たちが普段の暮らしの中で「これはちょっとおかしいな」と思っても言葉にできず、そのうち疑問を抱かなくなり、やがて当たり前のこととして受け入れてしまうプロセスは、遠い世界の話ではなく、案外すぐ近くにあるかもしれません。

さらに、「思想」を支えるのは「言語」です。言語によって考えを組み立て、共有し、批判し合うことで、人は成長したり社会を変えたりできるわけですよね。もし言葉が奪われる、もしくは言葉が偏って流通するようになれば、その結果として自由な思考は徐々に奪われていくでしょう。たとえば特定のフレーズや単語がSNSやニュースサイトで繰り返し使われると、それだけが正解のように見え、他の視点や言葉が埋もれてしまうことがあります。一方で、あまりに専門的な用語が多すぎて「わからないから黙っておこう」と思ってしまう場合もありますよね。こうした言語環境の偏りや自己規制が、結果として「1984」が描き出すような、誰も疑問を提起しない世界へ一歩ずつ近づいてしまうのかもしれません。

今日の私たちに起こりうること

 では、監視の空気や言語の問題が具体的に私たちの生活とどう関わっているのでしょうか。たとえばスマートフォンを見ている時間を思い浮かべてみてください。テキストメッセージのやりとりやSNSへの投稿、検索エンジンでの調べごとなど、ありとあらゆるデータは追跡され得る状況にあります。アメリカの学者ショシャナ・ズボフは「監視資本主義」という概念を提唱し、企業がユーザーのデータを解析・活用して大きな利益を生み出している構造を詳しく論じています。もちろん広告の精度が上がるなど、便利な側面もある一方で、私たちが何を望んでいるのかを事前に予測され、誘導される可能性はないでしょうか。

たとえば、何か欲しいものがあってネット検索をすると、その後しばらく関連する広告ばかりが表示される、という経験は多くの方にあるかもしれません。このとき私たちは「やめてほしい」と感じるかもしれませんが、一方で「自分はそういう嗜好の人間なんだ」と暗に受け入れてしまい、そのうちにさほど違和感を覚えなくなる可能性があります。さらにSNSのタイムラインは自分にとって心地よい情報や意見ばかりを表示するよう学習していきますから、自分のバイアスや思考の傾向に合った世界観が固定化されやすいのです。こうなると、自分の外にある批判的な視点や未知の価値観に触れる機会が減ってしまい、次第に「これが当たり前なのだ」と思い込んでいく危険があります。

また職場でも、会社の内部SNSやチャットツールの存在が、コミュニケーションを迅速にする一方で「上司にどう見られているか」という意識を高めるかもしれません。意見を交わすはずの場が、いつの間にか「無難なコメントをするだけの場所」になってしまうこともあるでしょう。こうして「誰も大胆な提案をしなくなる」「言葉が平凡で形式的になる」などの現象が起こると、組織全体が停滞していきます。これは会社という小さな社会で「1984」的な息苦しさが醸成される一例かもしれません。

さらに言えば、家族や友人との関係性にも微妙な影響が広がることがあります。家族間であっても、本当の気持ちを言わずに空気を読んでしまうとか、SNS上ではいわゆる「リア充」を演じておきながら、実際にはまったく違う感情を抱えているとか。そこに「監視」の意図が直接あるわけではなくても、世の中に広がる「評価を気にする空気」が根付いていると、ありのままの姿を表に出すのが怖くなることもあるでしょう。「他人からの評価」そのものが一種の監視装置へ変わってしまい、自分を守るために何でも当たり障りのない言葉を選んでしまう。こうして誰かと本気で向き合う機会が減ってしまうというのは、私たちの心にも小さなディストピアを生むかもしれません。

この先にある問い

 ここまで、監視の仕組みや言語の統制が及ぼす心理的影響について、大まかに眺めてみました。「1984」を単なる古いディストピア文学と見るのではなく、私たちのコミュニケーションや思考のあり方の危うさを映し出す鏡として見ると、学べることがたくさんあるように思います。わたしたち一人ひとりの発言や行動が、知らないうちに周囲の「空気」を作り上げてしまうこともあれば、その空気に触れて自分自身が少しずつ考えを飲みこむこともあるかもしれません。

監視社会を完全に否定することは難しい側面があります。技術がもたらす利便性は、当然ながらわたしたちの生活を大きく変えていますし、適切な管理や防犯があるからこそ安定が保たれる場合もあります。ただ、一方的にコントロールされるのではなく、自分自身がその仕組みを知り、どのように利用するかを考えられるかどうかが、自由を保つ鍵なのだと思います。オーウェルが「1984」で描いたディストピアのエッセンスは、現実のテクノロジー社会の中でも警鐘として生きているのです。

では、ここからどうすれば「自由な思考」を取り戻すことができるのでしょうか。あるいは、そもそも私たちは自由なのか、それとも実はどこかで監視の空気に自ら同調してしまっているのか。次回の第3部では、そこからさらに踏み込んで、「異議を唱える難しさ」「新たな言葉を紡ぐための勇気」という視点から「1984」の読み方を広げていきたいと思います。職場でも家庭でも、あるいはSNSの世界でも、わたしたちがもう少しの工夫でできることは何なのか。自分の内側と向き合うヒントを探りながら、次回も一緒に考えてみましょう。ここまでお読みくださり、ありがとうございます。次回も、また新しい角度からこの物語とわたしたちの現実を結びつけていければうれしいです。




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