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監視と同調の狭間で、わたしの声を選び取る "1984 4/4"

色褪せない文学

 ここまで「1984」をめぐるお話を読んでくださってありがとうございます。今回が最終回になります。このシリーズでは、戦後間もない時期に書かれたジョージ・オーウェルの「1984」がいまなお色褪せず、多くの示唆を与えてくれることを見てきました。監視や情報操作の問題だけでなく、私たちの内面に潜む「思考の停止」や「ダブルシンク」を通じて、自分自身が意外と気づかないままにコントロールされている可能性もあるのではないか、という問いかけが重要でしたよね。

最終回の今回は、その総合的な学びを振り返りつつ、よりポジティブな観点から「いまを生きる私たちはどう行動し、どう思考していけばよいのか」を探ってみたいと思います。日常生活や職場・社会の中で、自分の意見を持ち、情報に流されないためには何ができるのか。歴史上の独裁国家ほど露骨ではないにしても、技術が高度に発達した社会の中で「1984」的な支配構造が再現されうる時代だからこそ、改めて問い直したいところです。あなた自身のこれからのキャリアや人間関係、あるいは個人的な人生観にも役立つヒントを見つけていただけたらうれしいです。最後までどうぞお付き合いください。

「1984」の全体像といまにつながるポイント

 まず、あらためて「1984」という作品が描く全体像をざっくり振り返ってみましょう。大きな支配者的存在、つまり「ビッグ・ブラザー」が国民のあらゆる情報を握っている。そしてニュースピークという制限された言語によって、人々は批判や疑問の言葉を持つことさえ難しくなる。さらにダブルシンクによって、前と後で矛盾する事実を平然と両立させ、記憶を書き換えることすら厭わない。こうした監視と操作の仕組みが徹底されている社会では、人々はお互いを疑い、最終的には自分をも疑うことを忘れ、みずから思考を放棄してしまうという恐ろしい未来が提示されています。

とはいえ、そのディストピア的な世界に私たちが現実に生きているわけではありません。たとえば自由にSNSでつぶやき、趣味の情報を収集し、ときには批判的な意見を発信することだってできます。でも、その自由が「本当に自分の意志にもとづくものか」という問いは残りますよね。テクノロジーが浸透し、データや広告がきわめて高度に個別最適化されている環境では、私たちは知らぬ間に自分の欲求や思考を誘導されているかもしれません。オーウェルが書いたようなあからさまな「政治的独裁」ではなくても、アルゴリズムと大企業の経済論理によって形づくられた情報空間が、ソフトな形で私たちを管理している可能性は十分にあるのです。

たとえばデジタル・プラットフォームの指し示すおすすめ情報にばかり触れていると、世界はとても狭く感じたり、一方向的な偏った情報ばかりを集めるようになったりしますよね。それでも「便利だし、別にいいんじゃない?」と疑わずに済ませてしまうとき、それは「1984」で言われるニュースピークやダブルシンクの入り口に立っているとも言えます。もちろん、テクノロジーの恩恵自体は大きいので、一概に悪いと断じるのではなく、どう使いこなすかが問われているのだと思います。

情報社会の中で何を選び取るか

 私たちには、情報を選び取る自由が与えられています。しかし実際には、膨大な情報が洪水のように押し寄せてくるなかで「選んでいる」という実感を持ちにくいことはないでしょうか。むしろ、向こうからどんどん流れてきて、反射的にスクロールしているうちに時間が過ぎてしまう。そのなかで特に気になったものだけを少し詳しく見てみる。それを「選択」と呼べるのかどうか、少し疑問が残ります。あるいは本を読もうとしても、ついSNSや動画に目を取られてしまい、「長い文章を読むのはもう疲れる」と感じることが増えていないでしょうか。

情報を選ぶというのは、実は単なる受動的な行為ではなく、意識的な「取捨選択」のプロセスが必要になります。そこに主体的な意思や視点がなければ、流れに任せて拾い読みするだけで終わってしまう。「1984」にあるような全体主義的な統制とはまた違いますが、私たちは自分の視野を狭めない努力をしない限り、自然と流れの強い方向へと流されていきます。「強い方向」というのは、多くの人が興味を示している話題や、アルゴリズムが「あなたが好きだろう」と想定している情報群のことかもしれません。一歩そこからはみ出して、今までとは違う分野や視点の情報を探しに行くという行為は、案外エネルギーを使いますよね。

イタリアの哲学者アントニオ・グラムシの「ヘゲモニー」という概念を思い出すと、社会や文化が作り上げた支配的な価値観や思考に、気づかないうちに自分も巻き込まれ、そのまま受け入れてしまうという状況がイメージしやすくなるかもしれません。無意識のうちに「これは当然」「こうあるべき」という前提を共有していて、そこから外れたものに目を向けなくなる。意図的な監視や弾圧がなくても、多数派に依存する心理が、ある意味では「ダブルシンク」を生みやすい土壌になっているとも考えられます。だからこそ、「こういう見方もありうるのでは」という小さな疑念や反発心は、健全な社会にとって大事なエネルギーなのです。

「自分の言葉」を育てるということ

 ここで一つのキーワードとなるのが「自分の言葉」です。これは、いわゆる専門的・学問的な言葉を身につけるという意味だけではありません。むしろ、どんな分野の知識であろうと、それを取り込んだ上で「自分自身の思考」を表すための語彙や感覚を磨いていくことです。もしニュースピークのように社会全体が語彙を極端に制限していなくても、私たちは簡単に使えるネットスラングやテンプレート化した言い回しに頼りがちですよね。そして、それらが決して悪いわけではないのですが、自分の本音や独自の視点を言語化するプロセスが短縮されていることにも気づきます。

たとえば、何かを批判するときも「それ、ヤバいですね」「何か違うかも」など、曖昧な表現で済ませてしまうと、本当に何が問題で、どう変えるべきなのかが曖昧なままになりがちです。そこをあえて「どういう点が、なぜ問題だと思うのか」を文章にしたり、口頭でしっかり伝えたりすることが大切になります。そうしないと、自分の考えが漠然とした不快感や他人の意見の二番煎じに埋もれてしまい、やがて「自分は何を思っていたんだっけ?」と見失ってしまうかもしれません。

実際、オーウェルの文章は非常に明瞭で、政治的なプロパガンダを批判する際には率直で力強い言葉を用いることが多かったとされています。そこには「自分の言葉で語ることが、支配や操作に抗するための第一歩だ」という信念が感じられます。私たちも日常で、少しだけ時間をかけて「自分はなぜそう考えるのか」を言語化してみる習慣を作ると、思考が深まり、情報に対しても主体的に向き合いやすくなるのではないでしょうか。それは仕事の場での提案やプレゼンテーションにおいても有効ですし、個人的なブログや日記、友人との雑談でも活かせるはずです。

私たちの未来と、小さな一歩

 ここまで見てきたように、「1984」は単なる暗いディストピア小説ではなく、自分の意志や言葉を持ち続けることの大切さを警鐘の形で教えてくれる作品だといえます。たとえ巨大な権力の前では無力に見えたとしても、一人ひとりが自分で考え、自分なりの言葉を持ち、小さな疑問や違和感を手放さない限り、「完全なる支配」は成立しにくいのです。そこにオーウェルの希望が隠されている、と読み取ることもできるでしょう。

いまの社会では、国家権力だけが問題なのではありません。テクノロジー企業の莫大な影響力、SNS文化の過剰な同調圧力、あるいは学校や職場で「みんなやっているから」という空気。そうした環境に飲みこまれそうになっても、わずかに踏みとどまるためにはどうしたらいいのか。そのための方法のひとつとして、前回も少し触れた「自分の思考を記録する」「信用できる人と腹を割って話す」「意図的に違う情報源をのぞいてみる」といった地道な習慣が考えられますよね。大きな変革を起こすのは難しくても、こうした小さな行為が続くことで、社会全体の言葉や思考の多様性は守られるのではないでしょうか。

最終回のまとめとして、もしオーウェルの「1984」をこれから読んでみようと思ったら、あるいはすでに読んだけれどもう一度挑戦してみようと思ったら、ぜひあなた自身の暮らしや職場、周囲のコミュニティの風景と重ね合わせてみてください。「ここにはニュースピーク的な要素があるかも」「これって、自分もダブルシンクしてないかな」といった形で読むと、新たな発見があるはずです。と同時に、「じゃあどうしようか」「自分は何ができるか」という実践的な問いが生まれることを願っています。そこには、いつの間にか埋もれていたあなた自身の声や、あなたを成長させる大切な問いが隠されているかもしれません。

これで4回にわたる連載はひとまず締めくくりですが、もしもっとじっくり深い議論をしたくなったときは、さまざまな哲学・社会学やテクノロジーの知見を組み合わせて考えられる場を探してみてください。ちなみにわたしたち「yohaku」でも、よりじっくりと掘り下げるためのメンバーシップを細々と運営しています。興味があれば、いつか気軽に覗いてみてくださいね。まずはここまで読んでくださったことに心から感謝しています。オーウェルの「1984」が、あなたの生き方をもう一度問い直すきっかけになれば幸いです。



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