恋愛は原動力にならない
あまり恋愛とバイタリティに相関のない人というのはいて、どちらかといえばそう言うものがない方がただただやるべきことの邪魔にならないんじゃないか、と憧れることがある。
いつだったかまんざら嫌いではなかった男の先輩が突然肩を抱いてきて生まれて初めてまともに性欲を掻き立てられたあの日まではわたしもそんなだったはずだ。そうはいってももう過去には戻れないので残念かどうかはわからないけど。もっとこう、そんなに好きでもない人と体の関係を持って「うーんほんとうは微妙だった」という感想でも抱いたら違ったんだろうか。
そんな、とにかく今は、こんなこと考えたりしたりしてる場合じゃないしあなたにはあなたのやるべきことがありますよね???と厳しい意見が何よりピシャリと刺さる。
けれど《啓示》は、人をこんなにも情けなくさせてしまう色欲とおんなじで、脳下垂体から出るホルモンが大きく関係している。伝えられなかった悔しさに負けたのも脳下垂体のせい。そしてまた躍起になってるのも脳下垂体のせい。
大元が同じなのを悔しいと思うときがあって、それにきづくたびに「うわっダサいなそんなこと考えて…」と反省する。
恋愛を原動力にしたっていいじゃないって本当は思ってる。わたしの知ってるいいギタリストはみんなモテたいから楽器を握り始めていた。ルソーはあんなこと宣って自分の7人の子供は全員孤児院送りにしていた。
ドーパミンは永久には出ない。継続性はない。あんな無意識のリビドーみたいなところに自分の心身を支配され続けるのは、正直しんどい。
過労死80時間だって1ヶ月ならこのホルモンでやってけると思うけどね。
でも全く別の用事で2ヶ月連続で出さなくてはならなかったけど2ヶ月目は出なかった。風邪をひいてむしゃくしゃして泣いていた。
原動力を支えるのは、その行動そのものに対して当然しなくてはならない!と息巻いて勢いづいたことがある、わたしの中に眠る宿命感なのではないかと思っている。それは頭ではなくて身体がそう述べてくれる。身体を動かすようになってから、ほんとうに身体を信頼して、頼り切ってしまっているような感じすらする。
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