生活保護世帯に対する地域公共交通政策~クリティカルな意味での自家用車の無い地方生活を守るために
公共交通とかモビリティの世界で、あまり聞かないけど大事だと思う話をひとつ。
「MaaSで地域の再生!」とか「自動運転でスマートシティを!」みたいなキャッチーな話ではないですが、行政としてはとても大事な話だと思って書いてみます。
個人的に好きな言葉のひとつに次のようなものがありますが、今回はそういう価値観の話なので、そういうのが好きな人だけ、以下どうぞ。
〇自家用車を持たない生活保護者の移動手段とは
生活保護受給の要件として自動車を保有しないことになっている、というのは、コロナ禍で生活保護が増える中で何度も記事になっています。
ちょっと古い記事ですが、こちらのは特によく問題点を指摘していると思います。
最近だとこんな記事もありますね。引き続き生活保護世帯へのマイカー禁止規定は厳しく運用されているようです。
こうした記事にもある通り、生活保護を受けるには原則として自家用車を持てません。
生活保護世帯に通学や通院が必要な場合、その交通費は行政から支給されるので、困らないはず、という原則だからです。確かに、地域に鉄道やバスがあり、日頃、公共交通で動き回るのが前提の都会であれば、定期券や回数券を支給したり、事後清算で交通費出したりで何とかなるかもしれません。
生活保護を受ける人の「健康的で文化的な最低限度の生活」にはマイカーは贅沢で、徒歩や自転車、必要なら公共交通で十分ですよね、交通費の支給もきちんと行政で出すのですから、コストの安い公共交通で頑張ってくださいね、という考え方です。
〇「公共交通で生活できる」というのが実はかなりの「贅沢」
ただ、実は、公共交通で生活できるエリアに住んでいるというのが、かなり「贅沢」になってしまっている現状が日本にはあります。
地方部の多くでは、自家用車がなければ通院も通学も買い物もまともにできない世界が広がっています。
遠くのバス停まで歩けなかったり、乗り継ぎが大変だったりする高齢者や障がい者の話だけではありません。
朝の通学時間帯はバスが用意できるけど、帰りの時間帯がばらける部活送迎時にはまともにバスがないので、特に子どもが高校に上がれば多くの地域では自家用車送迎は不可欠になります。
タクシーも都会では贅沢品に思えるかもしれませんが、バスもろくにないので、地域によってはタクシーは通院や買い物の必需品です。スーパーの前にタクシーが止まっている風景は結構地方部ではありふれたものなのです。
そういう自家用車がなければ生活できない地域に、生活保護を受ける人が住むこと自体が「贅沢」になるのでしょうか?
それを「贅沢」といってしまえば、ふたつ問題があると思います。
ひとつは、そういう交通の不便な地域というのは、必ずしも都会の人が想像する「山の中の過疎地」みたいなところだけでなく、地方都市のちょっと駅から離れたところ、みたいなところがたくさんあります。例えば、山形県内で公共交通で生きていけるところなんて、山形駅前や市内の繁華街である七日町から歩いて行けるところくらいでしょう。この理屈だと、県庁所在地の一番の繁華街とか、あるいは東京や大阪みたいなところにみんな移住してください、ということになります。生活保護を受けることで居住する自由を奪われることになってしまいます…。
また、ふたつめには、生活保護の受給の在り方はとても多様ですし、そうであるべきです。労働所得で生きていけない人はすべからく公共交通の便利な都心部に移住してね、では、地方からますます人がいなくなってしまいます。
例えば、先祖代替のお墓を守るために、とか、老親の近くにいたいから、とかの理由で生活保護を受けながら過疎地に住み続けたい、という人がいても良いでしょう。どうしても十分なお金が稼げないけど、その地域の風土や人が好きでどうしてもそこに住んでいたいという人もいるでしょう。そういう人も許容してこそ地方部に人口が残ると思います。
〇地域の協議を原則にしている地域公共交通政策
バスや鉄道が無い地域でも、例えば、生活保護世帯へも必要に応じてタクシーチケットを配るという形で、福祉政策の範囲で対応できるんじゃないかと思う人もいるでしょう。
でも、実は、結構な地域でそもそもまともにタクシー事業者が残っていなかったり、いても運転手も車両も少なくて営業時間がすごく短かったり、という状況にあります。
そうした鉄道、バス、タクシーといった民間の公共交通手段が不便になっているところで、どうしていくか、というのが地域公共交通政策です。
その地域公共交通政策で、柱になっているのが、「地域の協議」です。
自治体単位のこともあれば、地域のコミュニティでのものもありますが、地域住民や自治体、そして地元に残っている交通事業者などの関係者で協議会を作り、そこで地域のニーズを調べ、必要な移動手段を検討します。そして、そこで決まったことに、行政は補助金を出して支える、というのが現在の地域公共交通政策の原則とする流れです。
地域の高齢者の要望を受けてコミュニティバスや乗合タクシーを導入したり、子どもの通学に合わせたバス便を運航してもらってその路線に補助金を出したり、定期券購入補助を出したり。
地域で話し合って出してきたニーズに対応するために、行政もそうした地域の協議で話し合われた交通サービスに対してきちんと支援しますよ、というストーリーです。
〇「地域の協議」と生活保護(やその他の社会的弱者)の相性
では、はたして、そういう協議会で、生活保護世帯のニーズがきちんと話しあわれるでしょうか?
地域の人々が主体的に話し合うことはとても大事ですし、地域の協議会には住民であれば基本的に誰でも参加できる仕組みです。
でも、そういう地域コミュニティで発言できる人、というのはその地域コミュニティで立場のある人になりがちです。
生活保護に限らない話ですが、例えば、平日日中に開かれがちな協議会に、子育てと仕事を両立しているシングルマザーが参加できるでしょうか。そもそも自治体の案内が行き届かない外国人住民はどうでしょうか。組織化されていない難病や障害者の方々、引きこもり家族のいる家庭はどうでしょうか。
最近であれば、風俗業への行政支援の是非がニュースになってますが、そういういわゆる「賤業」と見られがちな人たちが自分たちの通勤事情を協議会の場で語り出せるでしょうか?
地域のコミュニティの場に出てきて堂々と意見を言うことが難しい人は少なくありませんし、自家用車を持たず、安価な公共交通に頼りたい人々はそういう層にこそ多かったりします。
地域の「声」を聴くことは大事ですが、そればかりを重視すると「声」の大きい人に公共サービスが引きずられることになります。
地域の協議会方式で、コミュバスやデマンド交通を導入・運営していると、どうしても地域の協議がうまくいくところで、そこできちんと声を上げられる人のニーズに即したサービスしか提供されなくなります。
〇行政の本分としての「データに基づく」「ルーチンとしての」交通政策を
地域の協議会には、自治体担当者や国交省の地元支局の担当者が必ず参加します。
生活保護世帯を含む、声を上げにくい人々のニーズを拾い、代弁するのは、やはりこうした行政の役割でしょう。
もちろんNGO/NPOのような有志の方々もいます。ただ、善意でやっている人の目が届かなかったり、NGO/NPOごとの思想信条やその他様々な理由でそうした善意の対象とならない人も当然いるでしょう。民間企業のお客にならない人、NPO/NGOの活動対象にならない人、地域のコミュニティで助け合えない人、そんな人々であっても、日本国民であったり、あるいは日本に住んでいたり、滞在していたりすれば、究極「ひとりの人間であれば」ケアすべき義務と権限が誰にあるのかといえば、やはり公務員でしょう。
さて、ではどうやってそうした声を上げられない社会的弱者の声を拾うのか。
主体的な声が上がらないところは、やはりデータが力を発揮するところです。
住民票さえあれば、納税さえしてくれれば、行政はどこに誰がいてどんな生活をしているか概ねわかります。
例えば、奈良県広陵町の地域公共交通計画で生活保護世帯の地理的分布をきちんと把握し、分析しているものがありました。
こうしたデータに基づいて、行政の側から、ここにニーズがあります、と助けを求められる前にこちらから助けに行く「プッシュ型」の仕事が地域公共交通の協議の現場でも必要です。
行政がデータを収集し、保有し、分析する、というのは近年のはやりですが、どちらかというと起業とかマーケティングとかビジネスな分野が注目を浴びがちですが、数字の力、データの威力というのは、こういった声なき声を拾うためにもっと使っていけたらな、と思います。
もちろん、データがなくとも、公共交通の政策担当者が、「ビジネス」としての交通以外に、きちんと「インフラ」としての交通をきちんと意識することも大事なのはもちろんです。その観点でいえば、国交省と厚労省や文科省、自治体の交通担当と福祉・文教担当というのは、インフラの整備側とユーザー側としてもっと緊密な連携を図っていくべきなのは言うまでもありません。
ただ、こうした取り組みを進めるにあたって、担当者の頑張り、みたいなふわっとしたものに頼るのではなく、きちんとお役所のルーチンワークとして、当然やるもの、という認識を広めていくことが大事だと思います。
広陵町のような事例を横展開したり、国交省の計画策定のガイドラインで、「地域の協議にあたっては、生活保護世帯の状況も分析して」と記載するのもいいのですが、「作業」として、地域ごとに差のある「熱意」や「善意」頼みのものにするのではなく、きちんとしたルーチンのお役所仕事とするには、やはり国のより積極的な働きも欠かせないと思います。
特に、部局を跨いで個人情報にもかかるデータを提供するのは自治体において大変ハードルが高い仕事です。やる気のある人には、その後押しになるものとして、やる気がない人にも「国が言ってるからやらなきゃいけないんだろうなぁ」と認識してもらうために、担当省庁からの自治体への通知というのはやはり意味があると思います。
国交省と厚労省が連絡し合い、地域公共交通政策の策定に際して、生活保護世帯の住所情報等の照会が交通担当からあれば、福祉担当はちゃんとデータを出すように、という通知を発出し、計画策定の担当者が「創意工夫を発揮して」頑張らなくても、淡々とデータを取れるようにしてこそ、「お役所仕事」できちんと救われるべき人が救われるレベルになるのではないかな、と。
(もちろん、通知一本で劇的に変わる世界でもありませんが、あるのとないのとでは全然違うはずです。)
国家公務員として通知を出したり、地方公務員として通知を受け取ったりするのは、役人一般からするとつまらない灰色の仕事に見える場面も多いと思います。が、こういうことによって、社会で本当に助けを求める人々を救うというのは、そういう灰色の仕事の積み重ねなんじゃないかな、と思うのです。最近、離職者の多い職業ですが、そう思うとやはりここでしかできないやりがいというのはあるよなぁ、としみじみ思うのですがね…。
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