運
自分の性別は、男なのか女なのか。
アメリカの時期大統領は、トランプなのかバイデンなのか。
犬派なのか猫派なのか。
今夜食べたいのは、カレーなのかラーメンなのか。
私達は常に二者択一に晒されながら、二者択一に翻弄され、二者択一の中で生きている。
この世に存在する人間もまた、二者択一である。
犬のうんこを踏む人間と、犬のうんこを踏まない人間だ。
この地球上にどこまでも広がる地面。歩いても歩いてもその終着はない。でも私達たちはこの床を進み続ける。土地は人生だと言わんばかりに。
無限とも感じられるこの雄大な土地にあるほんの僅かな一点に過ぎないうんこをちょうど踏む確率は相当なものだ。
前を向き「よし」と気合を入れて人生の一歩進めようと、ちょうど大地を踏みしめた右足の下にピッタリあったうんこを踏みしめる、なんてことが起こるのは相当な奇跡だ。
それなのに、うんこを踏むタイプの神がかった人間というのは一定数存在する。
しかも踏むタイプの人間はその奇跡体験が1度や2度ではないという。
当たり前のようにこのアンビリーバボーな体験をする踏むタイプの人間は、犬のうんこが綺麗に日常に溶け込んで、何気ない平和な景色をうんこと共に織りなす。
そしてこの踏むタイプの人間は、何故だか愛らしい。
「またうんこ踏んじゃったよー」なんて照れて足の裏から独特の匂いを発すれば、人々はラベンダーのアロマを浴びたかの如く癒される。
うんこの上に笑顔が咲く。
うんこを踏んだ靴なんて、そのままの姿で佇むだけで大爆笑をかっさらう。
R-1に出れば準決勝くらいはいけるのではないだろうか。
私のような踏まないタイプの凡人は、当然踏むタイプの人に憧れの念を抱く。
あんな愛らしさが私の中にあるだろうか。
みんなの柔らかい平和な笑顔を私が作ることが出来るだろうか。
なんで私は踏まないタイプの人間に生まれてしまったんだろうか。
どんなに悔やんだって生まれ持ったこの運命に逆らことは出来ないのだ。
それが運なのだ。
私だって、私だって、犬のうんこを踏んで、みんなを笑顔にしたい。
私は今朝、犬のうんこを、踏んでみた。
思い切り、私の中の喜怒哀楽の全て込めて。
敢えて踏ませていただいた。
目の前にいた薄い頭の頂上で無理矢理ちょんまげを作っている怪しいおっさんが、私のその一部始終を見ていたらしく、怪訝そうな表情を浮かべ、私を避けて通って行った。