錦糸町の神々1
私は一年に一度、錦糸町に行く。
いつも必ずとても寒い。
錦糸町はいつ行っても人が多い。
治安が悪いと言われがちだが、今のところ私は錦糸町で危険な目にあったことはない。
植え込みと歩道の間にあるガードレールの小鳥がかわいい。
小鳥が「ここは安全な街ですよ」と言っているようだ。
ガードレールの小鳥に見入って歩いていると、本来小鳥がいるべき場所に穴の開いたガードレールが出現した。
私、は、錦糸町で危険な目にあったことはない。
今年もまた冷え切った空の半分がグレーな錦糸町を歩く。
北へ歩を進めると去年の錦糸町の記憶が蘇る。
ーーーーー
駅から目的地に向かって歩いていると50歳位のご婦人に話しかけられた。
「アノ、チョトイイ?」
赤いダウンジャケットに強めなパーマのご婦人は、表向きのアグネスチャンよりちょい上手い位の日本語を話している。
「はい」
私が返事をすると
「ニトリ、ドコニアルカシッテル?」
私は錦糸町にあるニトリへの道を尋ねられた。
これだけ人が多い中で、私は一番錦糸町に詳しそうにみえたのか。
そんなにジモト感が出ていたのか。
私は錦糸町の中の錦糸町なのか。
しかし残念なことに私は錦糸町のニトリの場所を知らない。
なんとなく、もうちょい歩いたところにある大きい商業施設の中に入ってるかもな…という気はしたのだが確証はない。
「ごめんなさい、ここら辺詳しくなくて分からないです…」
というと
「ア、ソウナノネ、アリガトウ!ゴメンネ!」
といってご婦人は違う人に聞きに行った。
私は目的地へ歩を進める。
ここかも、と思っていた大きな商業施設が見えてくると、そこには威風堂々とさわやかなグリーンに白い文字が見えてきた。
あ、ニトリここやん。
私はもうさっきまでの錦糸町のニトリを知らない私ではなくなってしまった。
錦糸町のニトリを知ってしまったのだ。
もう錦糸町のニトリを知る前の私には戻れないのだ。
戻れない私は、戻るべきなのか迷っている。
さっきのご婦人のところに。
もう、きっと違う人に聞いてニトリの場所は承知しただろう。
でも、もしかしたらまだニトリの位置を知らないままかもしれない。
迷った末、私はさっきご婦人に会ったところまで戻った。
しかも走って戻った。走ったのは何年ぶりだろう。走れニトリ。
しかしさっきの場所にご婦人はいない。
私はニトリを探しているご婦人を探す。
すれ違ったか?
でもニトリの場所を正しく突き止めていたら、進行方向的に私と必ずすれ違うはずだ。
私の視力は両目とも0.1ないが、真っ赤のダウンの女性を見逃すことはない。
キョロキョロしていると、コンビニから出てきた人と思い切り目が合った。
真っ赤なご婦人だった。
「あ!今ニトリ見つけて!」
「アリガト!ワタシモ、イマオソワッタ!」
私の使命は果たされた。
私は目的地の途中にニトリがあるので、ご婦人とそこまで歩くことにした。
「アナタ、イクツ?」
「私は36歳です。」
「アラー、28クライニミエルワヨ!」
ニトリを見つけるとこんなに褒めてもらえるらしい。
ニトリすごい。
「イエ、チカイノ?」
「家は少し遠くて、ここら辺はよく知らないんです。」
「ソウナノネ!カイモノ?」
「亀戸天神にお参りに来たんです。」
と言って気がついた。
そうだ、私は初詣をしに錦糸町に来たのだ。
別にニトリを探す人を見つけて、ニトリに案内するために錦糸町にいる訳ではない。
「私の使命は果たされた。」
じゃねーわ。
初詣にはあまりにも遅すぎる時期だったので、私はそんな怠惰が神様にバレないように無意識で「お参り」という言葉を使っていた。
「アラーソウナノ!ワタシノイエハ、カメイドヨ」
「じゃあお家は近いんですね」
「ソウソウ、モトハ、チュウゴク。シャンハイガニ、スゴクオイシイトコロ。シャンハイガニ、ワカル?」
「上海蟹、高級だから食べたことないです。でもめっちゃ食べてみたいです。」
「オイシイワヨー!スゴイノ!カニノ、ミソ!ミソガスゴイノネ!ミモ、イイケド、デモ、ミソ!ミソガ、コイノ!ミソガ…」
やめろ、やめてくれ。
これ以上その話を聞いたら、上海蟹を食べずにはいられなくなるではないか。
あー上海蟹。上海蟹かあ。どこで食べられるんだろ?
そう言われてみれば神保町の新世界菜館は上海蟹有名だったっけなあ。
でも高いよねー…いや、今すぐ神保町に向かえばランチで上海蟹の何かが安めに食べられるんじゃないか?時間的にもちょうどいい。
このご婦人をニトリまで送ったら神保町に…
「トコロデ、アナタ、カレシイルノ?」
あ、そうだ。
私は何を考えているんだ。
また初詣を忘れている。
頭の中の乗換案内を慌てて閉じて、神様にバレないようにそっと錦糸町に戻ってきた。
「あ、一応、います。」
「アラー!ソウナノネ!アイテ、イクツナノ?」
「同じくらいです。」
「ケッコン、シナイノ?」
「そうですね…分からないです。まだ考えてなくて。」
「ソウナノネ!ウフフ!」
何かそのご婦人はニヤニヤしている。
そうするとさっきのニトリの看板が、我ここにあり!と現れた。
「あ、ニトリです!」
私は看板を指差す。
「アリガト!トテモタノシカッタ!」
「私もです!」
そういってご婦人は一歩進み建物を見て、私の方へ振り返り笑顔で言った。
「アナタ!アナタネ、ダイジョウブ!アナタハ、ダイジョウブヨ!」
そう言って手を振ると、ご婦人は建物の中へ吸い込まれていった。
私は、何か大丈夫ではなかったのか。
うん、確かに私は大丈夫ではない。
私はいつだって大丈夫ではなく生きてきた。
今までの人生で大丈夫だったことなんてない。
大丈夫じゃないながらに、何とか、ギリギリでいつも生きてきた。
しかし、何か私は大丈夫らしい。
数分話しただけのこのご婦人の「ダイジョウブ」が、錦糸町のグレーな空気と一緒に私の体の中に染み込んできた。
一瞬時間が止まったと思ったら、細胞が異質なものを追い出そうとするかのようにゾクゾク動き、仕方なく受け入れるかのようにゆっくり止まった。
なんだか、私は、大丈夫な気がしてきた。
もしかしたら、あのご婦人は神様だったのではないか?
亀戸天神の神様が、誰にもバレないように強めなパーマの中国人のご婦人に姿を変えて、真っ赤なダウンを身に纏い、私の元に「ダイジョウブ」を届けてくれたのではないだろうか。
確かに神様がパーマかけて真っ赤なダウンを着ているなんて誰も想像出来ないだろう。
さすが神様。完璧な変装だ。
その頃になると、私の脳みその中から上海蟹みそは姿を消していた。
亀戸天神の神様に御礼しなくては。
そう、私は後厄なんだ。厄払いもしよう。
女性の30代の長い長い厄人生が、今年で終わるのだ。
早く亀戸天神に行こう。
ーーーーー
今年も変わらずニトリは威風堂々と現れた。
今年もあそこには神様がいるのだろうか。
私は今年もこうして生きた姿のまま錦糸町のニトリの前に来ることができた。
去年も何とかギリギリ生きていた。
私はニトリの看板に一礼する。
近くを通るお父さんと手を繋ぐ少女が私を不思議そうに見ていた。
私はニトリの店舗には入らない。
私にとっては錦糸町のニトリは足を踏み入れてはいけない聖なる場所のような気がするし、何よりニトリで購入したいものが今は全く何もないのだ。
私は足早に亀戸天神に向かう。
スカイツリーが「今年は忘れずに向かってるんか?」と言いたそうに、私を過干渉してきた。
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