下北沢について
吉本ばななの「下北沢について」
小説ではなくエッセイだ。
飾り気のない言葉ですっと胸に入ってくるのはさすがで、昔からの友達とカフェで話しているような感覚になる。読みながら、つい私も下北沢にはこんな思い出があってねと語りたくなってしまう。
下北沢に行ったのは一度だけだが、小劇場がたくさんあって芸術の街のイメージがある。
大学生のころにコンサートのために東京に行った。一緒にコンサートに行った3人は揃ってなにも考えていなかったので、泊まるところも決めておらず、22時にコンサートが終わった後カラオケになだれこんだ。そのうち、唯一東京に住んでいた子がお姉さんと2人で住んでいる家に泊まっていいと言い出して、深夜に向かったのが下北沢だ。
家に着いてからお姉さんに何も言っていないこと、お姉さんと同じ部屋で寝ていることを知らされ、申し訳なさから(のこのこついていった自分達もどうかと思うが)5時には家を出て、早朝マクドで寒さに震えながらハッシュポテトを食べた。
これが私の下北沢。
(これが私のアナザースカイ)
(上の一文を書くか迷ってダサいからやめようと思ったのに、その思考過程をやっぱり書きたくなって結局書くの図。わかる人にだけわかればいいの境地は遥かに遠い)
もう一つ。
お子さんが小さかった頃の郷愁の記載が多い。
40歳の時に生まれたお子さんは今は20歳だろうか?この本を書いた時にはまだ15歳かもっと小さいか。
子が親と一緒にいてくれるのは「つ」がつくまでだと言う。
今私の子はふたつ。この子に合わせている(つもりの)生活だ。
人に合わせる時期が必要なのだ。というような一文があるのだが、「つ」のつく時期を過ぎた子を持つ吉本ばななが振り返ってそう言っていることに、焦るような安心するような。
そんなわけで読み終わった後、子と2人で公園に行った。
が、三輪車に乗って行きたがるのに三輪車を途中で降りたがり押したがり抱っこしてほしくなったり手を離して突然走り始めたり道路の真ん中に走り込んでいったりブランコの順番が待てなくて地面を転がりまわったりいざ替わってもらったら絶対に譲らなかったり網のトンネルを通っては向かいから来る子にダメ!やめて!と叫んだり届かないボルダリングにチャレンジしたりチャレンジ失敗して顎を打ったり帰るときには水で手を洗いたくて服をびしょびしょにしたり石畳を歩くのが楽しくて三輪車が置いてある場所からどんどん離れた場所にいったり三輪車にようやく乗ったら寝たり寝顔がかわいかったり。
もうしばらく夫なしで公園にはいくまいと心に決めた。