森本めぐみ『土器と付着物』@空間
作者の森本さんの視点に、生きることへの愛着を感じた展示でした。今観られて良かった作品展です。
同展はオルタナティブスペース「空間」(札幌市中央区大通東8、「市営地下鉄バスセンター前」徒歩10分弱)で開かれ、10月12日〜11月4日の土・日・月曜日各13時〜19時に開場。最終日には森本さんの母校・北海道教育大学岩見沢校の同期友人アーティスト2人を交えたトークショーが催され、生活に根ざした制作の実際的な話を聞けるとても貴重な機会となりました。※分厚い内容のトークで聞いたことはひとところにまとめられず、文中に散りばめました。ご了承ください。
展示された12点すべてが、作者がこねて焼き上げた土偶・土器を用いた作品でした。なぜ土をこねて土偶を作ったのでしょうか?
かつては絵画を制作していた森本さんですが(私は今回調べて初めて知ったゆえ、当時の作品を観たこともありませんでした)、野幌の百年記念塔を題材としたグループ展に参加した際、未来に残る(出土する)可能性を含んだ土器のメディアとしての魅力に気付いたそうです。そもそも近頃、アトリエもなく、住環境や子育てで制作の制約があり、手近いところで作業できることが重要だったとも。
すべての作品に説得力がありましたが、まず中心作品の『EXIST HERE』の感想を残したいと思います。
●『EXIST HERE』文字土偶(土器)と日付絵画
紐でつながれて、渦巻きに吸い込まれるように置かれた土偶のメッセージは「ここに存在しなさい」。これはトークショーで、命令形のなにか遣る方無い思いを含んだものと明かされたものですが、私は初見で作者が「ここに生きている」ことを静かに表明しているものだと思っていました。
そしてこの作品について、初日に在廊していた森本さんから「河原温のような」という言葉も聞かれました。焼き上げられるのは一日一個だけだったとのこと、まさに日付絵画「TODAY」(参考>美術手帖・河原温の項 )のルールに近しいです。
河原温の日付絵画は、キャンバスに図像や筆触を排除した「絵」を描き、一般流通物の新聞を付属させるなど、絵につきものの「私」の存在を滅却することでかえって「そこに生きていた私」の身体性が影として浮かび上がってくる作品です。
私にとって、作品集で初めて目にしたときからずっと心に残り続けている作品で、人生の時間というものを教えてくれたと思っています。伝統的に「高い」価値を残すために描かれてきた絵画が、ただの社会的記号でしかない一日を蝋で固めたような物体として残ってしまう。そのため、それが高いも低いもない世のどんな人にもあてはまる貴重な生そのものを思わせるのです。作家自身がめったに人前に姿を表さないということも、作品の一部であるかのようでした。
一方森本さんの『EXIST HERE』は、キャンバスとは逆方向に凹んでいて、メッセージを象った土偶でありながら、ものを入れる側の器(土器・プランター)となっています。中に庭土が詰められたり、ちょこんとアクリル絵の具を付けられたりと、作品自体が作者近辺の環境と密接です。この個人的な手癖のある物体を、工業製品用の素材(レンガ用陶土)で作るというのは、日付絵画と比べるなら逆の方法。しかし、文字という社会的記号を象ることで同様に無形の生を表しているように思います。その結果として、焼きムラを含めた物体としての微細な差異に、存在の気配が見いだせます。
展示終了後には、裏庭で管理していくとのこと。未だ時の結晶にはならないこの作品の行方が気になります。
●展示風景・ほかの土偶たち
●特に好きな「熊の人」
特に印象に残っているのが、小品といえる数々の熊の頭をした人体を象った作品たち(熊の人と呼びたい)。私はこのさりげない人たちと展示方法が好きで、ずっと眺めていたかったです。
それにしても造形が絶妙です。身体の作り方がすごくしっかり観察を形にしている感じ。デッサン力でしょうか(描けない・彫れない自分には本当に羨ましい)。
熊の頭に人間の身体というキャラクターなのに、違和感なく表現を感じ取ることができます。むしろ正確に人の姿を作り上げていたら、単に一場面のの複製精度に気を取られ、台座のある彫刻と変わらない印象だったかもしれません。抽象化されたから、形とディテールの意味に目が行ったのかも。
おわりに
本当に見に行けて良かったです。水やり含めて「美術館でやれないことをやった」とのことですが、すべてが会場の雰囲気と広さに完璧にマッチしていました。森本さんの作品はもちろん、今後「空間」で行われる展示・イベントも楽しみです。ただこれは仕方ないのですが、急な階段を登って会場入りする都合上、ある年齢以上の方にはおすすめができなかったのは悔やまれました。
また、聴衆約25人+配信のトークショーからは、真剣に楽しく美術に取り組む現役作家のエネルギーをびしびし感じました。こうしたものを間近で内側を向かずに、関係者以外も目の前で観られる、これはとてもいいことなのではと思います。観客には確実に、自分なりの理解の端緒になります。コンパクトな札幌らしい現代美術の開かれ方なのでしょうか。