雑記:選挙は無意味なのか
今回は、私の意見というよりかつて政治学の学者に教わったことを中心に哲学的アプローチを加えながら選挙について、整理してみます。
最初に、前提ですが、私個人は特定の支持政党はないことをお伝えしておきます。
民主主義の誤解
いきなりですけど、民主主義って「主義」じゃないって知っていますか? だってデモクラシーって、デモス(民衆)による統治形態のことですよね。普通に訳したら民主制のはずです。ところが日本語では、「主義」って入っているもんだから、社会主義とか、共産主義と並列=選択のように見えてしまう。でも、デモクラシーによる社会主義もありうるし、デモクラシーによる共産主義もあるわけです。このことは、知識として知っておきましょう。民主制と並列なのは王制とか貴族制です。
投票に関する臆見
一つは、投票しないということは、意思表示の放棄ではないということです。民主主義の原則として、投票しないことは明確な意思表示なのです。行かない理由の中身は人それぞれでしょうが、ようするに選挙に不賛成であることの表明として捉えないといけないということですね。その点、白紙投票とは違います。こちらは今回の候補者に適正な人がいないという意思表示ですから。ところが、投票にしないことは、無効票と同じ扱いになってますよね。原則的には、投票率が50%以下の選挙はやり直しとか、適切な対応をしないといけないはずなんです。ま、先の選挙はギリギリ50%以上だったみたいですが。
もう一つは、ちょっと当たり前すぎるかもしれませんが、投票できることは権利であって義務ではないということです。えっと、「権利には義務が伴う」という人がいますが、それは権利の種類によります。選ばれた人とか高貴な人には(道徳的に)義務が伴うかもしれません。でも例えば人権に何らかの義務が伴いますか? こういう該当者全員に与えられる権利は、無条件のものであるから価値があるのです。
この二点からすると、「選挙に行かないやつは責任感のないやつだ」という常識みたいな言説は、民主主義をよく知らないということのテンプレートだと分かりますね。逆に、知った上で「選挙にに行こうね」と呼びかけるのは間違いではないです。今のところは……。
不都合な事実?
この事実をうけて、白井さんは「選挙なんかやっても無意味」と言っています。まぁ、調査結果を学者として見たら、そういうのも無理ないです。もう少し客観的に見ると、少なくとも選挙カーで名前を連呼するだけじゃなくて、きちんと政策を主張しようととか、投票する人が各党の政策の詳細に簡単にアクセスできるようにしようと、こういう取り組みは無意味だということだと思います。
そして、この事実を受け止めた上で、「選挙に行こうね」と呼びかけることは、どうでしょうか。むしろ民主主義の機能不全を助長することになりますよね。だから、大事なのは、「選挙に行くならちゃんと政策を見て、理解して、比較して、投票しようね」「それができない場合は、投票しないようにしようね」ということです。ここまで言って初めて、お望みなら有権者の「責任」という話になるのではないでしょうか。
メディアの責任
まぁ……日本のメディアが質が低いのは知っていますよ。というか、新聞やテレビ(マスメディア)の中の人から直接聞いています。ただ、今回は原則論です。考えてみましょう。
まず、有権者は権利があるだけで責任はない。責任があるのは、国やメディア(あるいは教育機関)で、やるべきことは、民主主義を機能させるために努力することです。端的に言うと、上記の「選挙なんかやっても無意味」という状態を変えようと努力することです。教育はある程度時間がかかるでしょうが、手近なところでは「選挙にいこう」とだけ手を変え品を変え、発信するのは、事態をより悪くするだけなので、やめましょう。先の調査の対象者は選挙に行っている人だけじゃないですからね。行ってない人も、ほぼ考えていないという結果ですから。したがって、バカなのは、今投票に行っている人だけで(50%近い)投票に行っていない人は、まともな判断をするはずだから、その人たちに「選挙にいこう」と呼びかけるのは、意味がある、というのは論理的に成立しないです。
フィクション
フィクションのことを難しい日本語では擬制と言います。事実じゃないことを事実のように扱うことなんですが、大事なのは、「事実のように扱う」とそれが事実になるということです。フィクションがファクトになる。ただ、それは無条件ではなくて、なんらかの手続きなり理由付けが必要です。それが、今回の場合は選挙ってことですね。選挙(という正当な手続きで)国民の支持を得たというのが、いかに事実に反しているかは、ここまで読んだ方は分かったはずです。ところが、それを私たちはすんなり事実として受け入れ、苦しいことでも従う。
(ここは私の意見でないことを再確認しておきますが、記事の流れとして)自民党の言っていることややっていることなんて、無意味に基づいているということ。選挙の結果で、なんか花飾りを名前に貼ったり、万歳したりとかは、遊びみたいなものです。いや、実際には違いますよ。それをマスメディアで流すことでフィクションをファクトにしているのです。そういうのをデマゴギーっていうんだと思いますけどね。
そして、実は無意味なのに大量にお金や選挙運動支援者の労力、時間が使われていること。すごく、ぐったりしませんか。なんか、宗教団体が関与したとかどうとか言っていますけど、なんのことはない、たぶん、それがあってもなくても選挙の結果は同じ、というのが現実なんです。ニュースとは一体……。ちょっと飛躍があるのは承知の上で言うならば、新聞やテレビの凋落は、その類のフィクションが飽きられてるということでしょう。だから、有名人が不倫しているというつまらないなりにもファクトの方が、関心を集めるのかもしれません。こっちもそうとうどうでもいいですけどね。
追記:2022.8.22
宗教団体は関係ないと書きましたが、例の事件についてのメディアの人たちの努力で、そうともいえない側面が明らかになってきましたね。自民党は、数多くの宗教団体に支えられている政党で、それはある程度メジャーな宗教団体だけではなく、議員の地元ではローカルな宗教団体が票田になっているとのことです。
とはいえ、この記事の内容(と結論)は変わりません。哲学者は常に宗教の信者より(潜在的に)賢いですが、カルトだったり非合理なものを信じる宗教は、常にリアリティ(現実に影響を与える力)で勝っているのです。つまり、非合理/無根拠/無意味が常に、事実なのです。
さいごに
政治参加は哲学的にも非常に有意義な活動に位置づけられます。今の日本の選挙のあり方がどの程度無意味なのかは、複数の視点で調査されるべき(これが科学の良い使い方だと思います)ですが、仮に無意味な部分がおおよそ特定されたら――もう、やめましょ。そういうのにお金や時間や人の関心を消費するのは。合理的には、それで浮いた資源を、無意味を有意味にする努力に使いましょう。まぁね、そんな理性的に事が進まないことは知っていますよ。でも、ときには、合理的に正していくことが、進歩につながってきたというのも歴史の事実ですから。
ちょっとまともなことを言い過ぎて、らしくありませんか。