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ローティのまとめと批判:ラトゥールをヒントにして

ローティではふざけ過ぎたので、今回は真面目に書きまーす……たぶん。

まとめ(というより書ききれなかったこと)

ネオ・プラグマティズムとは

 ローティは、ネオ・プラグマティズムといわれます。ネオってのは、新型のってことです。
 プラグマティズムというと、ジェイムズやデューイが代表でしょうね。彼らとの違いは、わりと簡単で、デューイ達は科学的な方法について楽観的すぎました。科学で人類は進歩していくと素朴に思っていたんですね。それは時代的にしょうがないです。
 ローティが科学的方法を信頼しないのは、やはり科学哲学のおかげです。科学哲学は、現代的思考の源の一つと、またしても強調しておきましょう。
 とはいえ、プラグマティズムからそのまま受け継いでいるものもあって、それが(相対主義にならないための)判断基準としての「有用性」です。ここが説明不足だったので補足を入れつつローティの言葉で解説しますと……プラグマティズムにとって最大の問題は、目的の選択である。(何か絶対的なものがあるわけではない)目的に応じて(それに適切な)記述が決まり、その(決めた結果による)成否は目的の達成度、および達成効率によって測られる。また、どの記述を採用するかに対しては、共に生きる我々として責任を負う。こんな感じですね。最後の一文は、政治的側面とつながっています。

ローティが評価する哲学は偏ってる

 ローティは自分が好きな哲学者に甘い評価をします。それは別にいいんですよ。私だってそうです。ただ、ローティほど(特に政治的な側面で)妥当なことを言っていると、ローティの哲学評価も同じぐらい妥当だろうと思う人がいるかもしれないので、注意喚起ですね。
 例えば、サルトルについては肯定的な意見が多いです。一方で、フッサールについては否定的な意見が多いです。これは、女子大学で大陸哲学の授業をしていたときにサルトルには称賛を、フッサールには嫌悪を、ついでにハイデガーはもっと学びたいと思ったから。それだけです。
 サルトルなんて、マルクス左派=ヘーゲル主義で、ローティの基準でもまったくポストモダンに値しない過去の哲学ですからね。まぁ……フッサールが本質主義だっていうところは私も同じ意見ですけど。

古い思想の見分け方

 ローティの言葉でいうと、我々の世紀の重要な知的進歩は、「我々はなにであるのか?」と存在論的に問うことをほとんどしなくなったこと、だとなります。そういうことを考えている哲学は古いってことです。ついでに、ローティにとっての禁句も並べておきましょう。「事物の本質」「本性」「真相」「それ自体のあり方」「(宇宙的な)秩序」……こういうことに真剣に関わっているのも、単純に時代遅れの証拠です。
 そしたら、考えの基礎がなくなるだろ、って基礎づけ主義の人は言うでしょう。本質を明らかにするからそれに向かうことができるだろ、って本質主義の人は言うでしょう。ローティは、そういう基礎づけ主義とか本質主義に対してアンチでした。ちなみに、哲学だけじゃなくてマッハとかの、物理学の人の基礎づけ主義も同じことです。さらに、政治(学)に対しても、ローティは同じ基準を当てはめます。多くの政治哲学が、人間の本性から理想とする制度や仕組みを考えていたでしょ。あれは、全部無駄です。実際にやってみて、上手くいったものが(プラグマティストから見た)正解です。つまり、ローティの特徴である哲学的なミニマリズムは、政治的ミニマリズムでもあるのです。この視点から見ると、「政治」なるものに神秘的な魅力を見出す奇妙な傾向――アリストテレスからアーレント――は精彩を失う、とローティは言うでしょうが、文脈としては賛成です。ただ、アーレントのが光るのはその部分じゃないんでね。

デリダについて

 ローティは、特にデリダについて沢山の文句を言っています。これはさっきの古い思想へのアンチではなく、同時代の哲学へのアンチでした。
 大きな構図としてはこうです。ローティがアメリカの伝統的なリベラル左翼であると紹介しましたね。その左翼を古いものにし、まさに「新左翼」と呼ばれるムーブメントがあったんですが、彼らにとっての「教祖」がデリダやフーコーやラカン(という大陸哲学)だったということです。
 とはいえ、時代の最先端の哲学への異議申し立て。ローティとデリダについて、多くの(国の)哲学研究者が様々な見解や研究をしています。
 しかし、私はすごくシンプルな対立だと思います。デリダにとっての敵はヘーゲルでした。ヘーゲルという大物を切るのに空手では無理なのでフッサールの現象学という武器を使った。一方で、ローティはフッサールと論理実証主義を切るのに、(後期)ハイデガーの哲学という武器を使った。それだけです。私の過去の記事を参照いただけたら、さくっと納得いただけると思います。
 でもこれは岡目八目ってやつで、当時の人――それはローティ本人だってそうです――は、ここまでシンプルには割り切れません。ローティは、「そうでないことを祈りつつ、デリダが隠れ超越論支持者」と思っていたようです。しかしデリダは、フッサールに極端にこだわっている人です。そして、フッサールは完全に第一哲学、形而上学、超越論哲学を目指した人です。「隠れ」もなにも、丸見えですよ。今から見ればね。
 私としては、デリダの時代背景的に、フッサールを武器に選んだことは無理のないことだと思います。まぁでも、それで脱構築(形而上学批判)って、相性悪すぎでしょ。デリダの哲学が有意な成果を残せなかったのは、この相性のせいです。

フーコーについて

 ローティは、新左翼の悪口を言うときに、ひとまとめにしてフーコーを含ませますが、実はデリダと違って、正面からフーコーについて言及しているのは、一つの論文があるだけです。
 その内容を追うことはしませんが、ローティは、フーコー本人の政治的立場は、ほぼリベラルと思っていました(そういえば、サルトルとフーコーが並んでデモに参加している写真がありましたね)。一方で、哲学の方は、ニーチェの悪い部分(超人思想=大衆の軽蔑)の流れであると思っていました。結果として、疑似アナーキズムと映っていたようです。
 私からすれば、ローティのアナーキズムの理解は古くて、むしろアナーキズム的な平等や平和は、プラグマティズムによってこそ実現されるものだと思います。また、フーコーの哲学についても、ローティは、いわゆる「初期」(『言葉と物』とかでしょうか)だけ見ていて、歴史を大事にする系譜学など、ローティと共通点の方に目がいきます。政治的立場も近いから仲良くできたと思いますけどねー。

ローティ批判

 ずーっと、基本的にはローティのいいところを強調してきました。そしたらこっからは、批判しときますか。
 とはいえ、何かの取っ掛かりは欲しいところ。ということで、ラトゥールの『虚構の「近代」』という本から、材料を頂きます。しかし、ラトゥールって誰やねん、となるので、簡単に紹介だけさせてください。

ブルーノ(ブリュノ)・ラトゥールについて

 フランスの科学哲学、あるいは科学社会学の人です。ついに……存命の人が出てきました。ミシェル・セールの数少ない理解者でもあります。『科学が作られているとき』が有名だと思います。(自然)科学の現場を文化人類学者の視点で分析した名著です。
 私は以前からローティとラトゥールは、哲学的に政治的にも近いものがあると思っていました。ところが、二人を取り上げた論文などが(検索しても)見当たりません。研究者レベルじゃないと、アクセスできないのかもしれません。でも、アメリカの現状(ブッシュ政権や9・11)についてラトゥールが「トクヴィルに帰れ」と言っているのは、本当にその通りだとローティがコメントしていたので、少なくとも接点はあったんでしょうね。
 さて、ラトゥールの『虚構の「近代」』から表(訳書227頁)を借りて、私なりに手を加えたのが以下です。

「前近代から」と「近代人から」を年代順に入れ替えています。●の項目は、原文のまま。■は私の加えたものです。ただ、そのうちグレーにしているのは、完全に私の意見でエビデンス無し。逆にグレーでない■は、ローティについての複数の副読本でおおよそエビデンスの取れているものです。

 表の構造は単純で、「放棄する特徴」をクリアすることで現代水準で使える思想になる。さらに過去が全部無駄ってことはないので「継承する特徴」でいいとこ取りをしちゃおう、というものです。
 そして、私は、ローティ「以後」と「以前」という観点で記事を書きました。この「継承する特徴」「放棄する特徴」を、ローティに当てはめることで、ローティ批判を示せると思ったわけです。その手前、「ポストモダン派から」のところに書き加えているのは、過去の記事を参照してください。一点、「支配に抗する潜勢力」は今後のテーマです。

 ローティからの「継承する特徴」は、これまで紹介してきたローティのいいところです。こっちはほとんど説明済みですが、最後の「鳥瞰の学」としての哲学。これは、前の記事の「文化政治」と内容は同じです。じゃあ、そのままでいいじゃんと思われるでしょうが、深い訳があるんです。

エスノセントリズムについて

 ローティの哲学の特徴の一つとして、ローティ本人が「エスノセントリズム」という言葉を使います。ニュアンスは、解釈学を知っている人ならとても簡単で、地平(視界の見えなくなる限界)の中心ってどこかというと、自分ですよね。ただ、ローティは「自律的な個人」といったものは発明品だと思っているので、実際は、自分を形作っているものの見方や常識、文化が中心となります。したがって、自文化中心主義と訳されたりします。
 が、エスノというのは、民族のことですから、単純に訳す(というか言葉本来の意味は)自民族中心主義です。これ、前近代の「放棄する特徴」の一つと同じでしょ。
 でも、それが大事なんです。自分の文化の限界(地平)を広げていこう=相手も変わるし、自分も変わる、とするなら、まずは地平を知らないといけません。哲学にはそれができるってのが、文化政治という言葉の意味です。いわば鳥の目で見る……という意味で「鳥瞰の学」としました。しかし、これは、「自分の文化が中心」と思っていないとできないことなんです。つまり、絶対的真理とか、客観的に疑い得ないことがあると思っている(伝統的哲学の)人は、自分の外――しかも遠い彼方に基準点を置くので、地平なんて見えないんです。それは神の視点ですから。あくまでも、人間の視点、自分の文化を中心とした視点を基準にするから、地平が見えるんです。
 このことは、ローティも強調していて、(ローティを相対主義だと言う人がいるけど)絶対的真理の視点からは、どれも同じに見えるんだから、そっちこそ相対主義だろって言います。これは、私が過去の記事で、「懐疑論は何も疑わないこと」とか、「批判主義は、批判をしない」と書いているのと同じことです。……いかん、またローティの補足になってしまいました。

ではローティ批判いきまーす。

立憲民主主義の理想郷

 ローティが、現代思想が回顧的(過去の過ちを反省ばっかりして、未来に目を向けないこと)であることに対して、過ちはあったけど、民主主義でより良く変えていけるさ、と改良主義の立場を取るのは分かります。しかし……政治から哲学を排除して(=公と私を分けて)、公に対しては「公開の法廷、論理的な公共空間を清く保つこと、反対弁論の自由、公平な発言機会、誠実な答弁、これらリベラルな条件を保証すること」に力を使うべきといいます。ようするに、「主体」とか「人間の本性」とかのくだらないことに使っている労力を、こっちに使えということなんですが、それは正しいですよ。現状できていないんだからこそ、頑張れというのも間違ってません。でも、理想的発話状態的な……つまりハーバーマス的(本質主義的)なアプローチと一周回って、重なってますよね。それが、いかに無意味かは、ローティが言ってるでしょ。そんな理想状態は最初から諦めるべきだと、私は思います。だから、言葉を返すようですが、ローティの上記の努力は無駄だと思います。

「寛容さ」という名の外部性

 ローティの我々とは仲間、市民のことと前の記事で書きました。ようするに、外部があるってことです。これは現実主義的で正しいと思いますが、ローティ自身が「寛容であることと無視することは両立する」と言います。こっちはさっきのと逆に、現実的すぎるでしょ。つまり、ローティはレヴィナスのいう絶対他者には冷たいです。ある意味で、ガダマー的とも言えますが、私はこの「寛容さ」は放棄すべきだと思います。

意識高い系アイデンティティ

 アイデンティティについてのローティの意見は前の記事を参照ください。これは、ポストモダンの人たちが警戒したことをもろに無視しましたね。別に構いませんよ。その点は、次で取り上げましょう。でも、現実を見てください――

 メディア(が日本だけでなくアメリカも腐っていること)はさておき、アメリカで民主主義(あるいは三権分立)が機能しないことを、ローティは全部新左翼(大陸哲学)のせいにしますが、違うと思いますよ! ローティの言う、アイデンティティの一つの(しかし現実の)帰結がこれでしょ。上で説明したように「我々として責任を負う」とか言ってますけど、自分たちだけでおさまらないでしょ。アメリカがナチみたいになったら他の国の人が迷惑するんですよ。あるいは、アメリカにいる、我々「以外の」人たちをひどい目に合わせるんでしょ。目に見えてるじゃないですか。これは、アイデンティティにこだわる以上避けれないものなので、放棄すべきだと思います。
 したがって、私は、アイデンティティに頼らない共同体との関わり方を模索することになります。ありがとうございました。

セーフティロックの安易な解除

 やっちゃいましたねー。お得意の気化冷凍法ですか? 回顧的であることと、セーフティロックをかけることは、当時は相関していたかもしれませんが、政治における概念としては別物でしょ。希望の政治とかいって安易にロックを外したのは間違いですね。ロックを掛けたまま、改良していくことを選ぶべきでした。
 ただし、私たちは経緯を知っています。レヴィナス、リクール、デリダは、二次大戦でひどい目にあいました。ローティは、平時の兵役でなんかコンピュータ関係で良い提案をして褒章をもらってますが、その違いです。危機感なさすぎ。危機感がないことを「希望」というのは……百歩譲っていいとして、そんな希望は放棄です。
 象徴的なのは、新左翼を倫理的、改良主義を道徳的と(元は同じ言葉を)分けて表現しますが、ぴったりだとおもいますよ! ロックの解除とは、即ち倫理なき政治です。

そして、それを内蔵しないこと

 そもそも、セーフティロックを内蔵する気がありませんね。論理的な一つの選択肢としてはありです。しかし、これはミスです。デリダがフッサールを武器にして失敗したように、ローティはハイデガーを武器にして、ここでミスっています。しかもそのミスに対してとぼけるんですよ。「ハイデガーは(政治に関して無知だったから)偶然ナチ党員になった」と言ってのける。そうでなかった証拠はあがってるし、仮に証拠がなかった(当時は分からなかった)としても、そういう風に考えるのなら、ポストモダン以前の政治状態に戻ってしまうことを防ぐ仕掛けをローティが作るのは無理です。
 社会正義として、労働者の権利向上、福祉の充実、そして、ローティの本記事の引用文(種の自己創造としての人類の進歩……云々)をもう一度見てください。これはね、ナチが過去に実現したことです。民主主義で
 ローティに対して、ナショナリストの右翼と勘違いする人がいますが、概ね間違っていないのは、こういうことです。ここで、リベラルが保守に反転します。

さいごに

 関連記事で、LGBTQの運動が新左翼的、SDGsがリベラル左翼的と整理しました。実際の成果とか影響力とか、そういうのは経済学とかの人が測ればいいんですけど、SDGsは、間違っていないけど別の目的に利用されているだけか、お題目だけでまともな成果が出ないかのどちらかだと思います。なぜなら、せっかく改良主義的かつプラグマティックにいいこと言っているのに、利用されたり、お題目で終わってしまうことを防ぐ仕組みを内蔵してないからです。そのせいで例えば、(SDGsでうまい汁を吸うのは)広告業界だけってことになりますよ。それこそ、「無駄」(あるいはブルシットジョブズ)でしょ。なぜなら、上に挙げたような「放棄する特徴」を持っているからだ、と私は考えます。
以上。私の書いた関連記事をベタベタ貼るのは好みではないですが、今回だけ我慢します。

レヴィナスや特にデリダについて触れています

セーフティロックについてある程度まとまった説明をした記事です

ローティの政治的側面についてまとめたものです

ローティの本記事(人物紹介)です

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