番外編:パラダイム(クーン)
パラダイム・チェンジやパラダイム・シフトといった言葉が流行語のように使われていた時期がありました。流行らせたのはクーンの『科学革命の構造』という本です。今回は、クーンが科学哲学に対して与えた影響にフォーカスして紹介していきます。
パラダイムとは
日常語とクーンの定義
流行り言葉としては、おおよそ物の見方や考え方の枠組みといった意味合いで使われていました。
クーンとしては「一定の期間、研究者の共同体にモデルとなる問題や解法を提供する一般的に認められた科学的業績」定義していますが、実際にはクーン自身がかなり広い意味でパラダイムという言葉を使ったので、後にはパラダイムという言葉を「専門母型」に置き換えたぐらいです。もっともそっちの方は(他の人に)ろくに使われることはありませんでした。
クーンが作った言葉ではない
パラダイムという言葉は、範型やモデルを意味するギリシャ語「パラディグマ」に由来します。今でも、語学用語として(ラテン語文法の)語型活用表という意味で使われます。こういった由来を踏まえて、例えば化学という専門分野では「化合物」とはこういうものだという「標準例」の集まり、といった意味を持たせたんですね。
科学が作られたのはいつ?
自然科学を思い浮かべていただいて、科学はいつから科学だったのでしょうか。答えは、19世紀。「科学者」とか「物理学者」という言葉が作られたのは19世紀半ばになってからです。そしてそれを洗練させていったのは1920年代から30年代の論理実証主義運動(運動の主体はウィーン学団)の時期です。そんなことないだろう、ガリレオとかがいるじゃないかと思うかもしれませんが、そのような「過去とのつながり」を後付で物語り、私たちが科学と聞いて思い浮かべるイメージを作ったのが、論理実証主義です。だから、科学は(最近)作られたものなんですね。
科学哲学(論理実証主義の言葉では科学論理学)者の名前としては、マッハ、ホワイトヘッド、ラッセル、ウィトゲンシュタインといったところです(もっと沢山いますけれど)。彼らは科学哲学の役割を、科学的仮説の論理分析とテスト可能命題の経験的実証としました。こうして正当化された科学の発見や業績は普遍的な真理だ、ということです。
彼らの狙いの一つは「形而上学の除去」でもありました。ようするに、哲学と科学を分けたかったんですね。そのうえで、物理学が頂点ではあるものの、すべての認識は根本的に同じ種類の認識だとして、社会学や心理学も含めて統一科学を、目指しました。
科学とは何か
(自然)科学の物語
「科学は合理的に進歩する」――観察に基づくデータから帰納的に仮説をつくり、その仮説から演繹されたテスト命題を実験で検証または反証を行うという合理的プロセス。これが科学の本質だ、という科学観。これが一つ目の物語です。もう一つは歴史に関わるもの。科学の発展は法則的知識や実験技術の積み重ねから成り立っていて、紆余曲折はあるものの、知識が右肩上がりに累積されていく連続的な進歩というプロセス、という物語り。
さらに、客観的事実というフィクション。例えば、顕微鏡写真のなかに染色体をみることは、高度な理論的な作業なんであって、だれでも見れるものではないというのが実際のところです。こういうことを、科学的事実は「理論負荷的」であるといいます。つまり、理論(というフィルター)によって見える/見るものが変わるということです。ということは、あらたな事実の「発見」が科学を進歩させるというのもまたフィクションです。理論を進歩させるのは事実ではなくて、それに変わる新たな理論であり、その新たな理論による観察は、それまでと違う文脈のなかで「事実」を構成する作業なんです。
通訳不可能性という危機
20世紀の科学の危機は、数学と物理学の分野で起こりました。クーンは数学ではパラダイム転換は起こらないと考えていたのですが、実際にそれは起こりましたし分かりやすいので数学の事例を取り上げます。
ユークリッド幾何学はガリレオ以降、堅牢なパラダイムでした。でも、皆さんも一度は聞いたことがあるでしょうが、非ユークリッド幾何学が成立します。ユークリッド幾何学の公理では平行線とはどこまでいっても交わらない直線のことです。そういう基礎命題から厳密な演繹的体系をつくりあげています。ところが、非ユークリッド幾何学では「平行線は二本以上引ける」だったり、「平行線は存在しない」という公理を基に、矛盾のない幾何学をつくりました。最初は理論上だけのものだろうと思われていましたが、現代では非ユークリッド幾何学を基にした技術は普通のことです。
ユークリッド幾何学で使われる点とか線といった言葉と非ユークリッド幾何学で使われる同じ言葉は、全く意味が違うけれども、それぞれの公理の中で定義されているということです。だから言葉は同じでも、同じ意味で会話(理論)が成立することはありません。このことを通約不可能性といいます。大事なのは、どちらかが間違っているわけでもなく、古い、新しいという関係でもなく、どちらも真だということです。ようするに問題は真偽ではなくて、どっちのパラダイムを選択しますか、という態度決定の問題だということです。
暴かれた物語性
科学の右肩上がりの進歩。客観的事実というもの。合理的に真理を扱っているという自負。そういったものは嘘ではありませんが、信じられていただけのものであり、フィクションだったということです。ここは大事なところで、信じられているパラダイムの中においては真理はあるし、実際に科学的な成果も出せるということです。
ただ少なくとも論理実証主義の言っていることは、完全に時代遅れです。正確にいうなら、視野が狭すぎました。科学の内だけしか見ていなくて、外を無視していたということです。例えば、19世紀の半ばに科学の専門分化と科学者同士の共同体(学会とか)ができるというのは表裏一体であって偶然じゃないってことです。
クーンは、科学を「文化人類学者」の眼で見ることによって、それが物語であることを捉えたのです。それをさらに哲学として推し進めるのは、プラグマティズムの頂点ともいえるローティになります。
解釈学との接近
他の記事で紹介したガダマーとクーンは晩年お互いにお互いを知ります。残念ながら深い交流にはなりませんでした。何が残念かというと、クーンの科学哲学とガダマーの解釈学が合流することによる結論を二人とも気づけなかったからです。
その結論とは、自然科学も精神科学(人文科学・人間科学)も真理の扱い方は一緒ということです。ガダマーは自然科学と精神科学を完全に分けて考えていました。クーンは自然科学に限ってその真理が形成されるプロセスを明らかにしてきましたが、それは解釈学のプロセスと一緒だったのです。
唯一の違いといえるのは、自然科学が形而上学を退けたために、人が生きていく上での指針のようなことは扱えない。精神科学はそれを扱えるという点だけです。科学として理論形成していくプロセスは一緒なんです。皮肉なことに、論理実証主義の目指した統一が、クーンのアプローチの方から成立することになったのです。そこで基礎になるであろう解釈学的合理性とは、歴史の中でダイナミックに変化していく「柔らかな合理性」です。
クーン自身は、この結論の手前まではパネル・ディスカッションの場で発表しています。自然科学と精神科学の違いは、種類の差ではなく程度の差だとして、パラダイムとほぼ重なり合う概念として「解釈学的基底」という言葉を使っています。
社会学という学問分野について
精神科学のかつての代表は社会学でした。コントが立ち上げたときは自然科学がモデルにされていましたが、ヴェーバーは明確に自然科学とは別の特性があると考えて社会学をアップグレードしたといえるでしょう。ただ、ヴェーバーの考える社会学の合理性(脱呪術化)や進歩というのが時代の制約されたものだったかが分かると思います。
コントとヴェーバーの間にはデュルケームがいるわけですが、デュルケームは「社会的事実」が認識可能と言います。ヴェーバーは、認識はそもそも価値相関的なため、認識の客観性のためには価値中立でないといけないと、学者を厳しく律しました。価値相関的など、いい線まで行っているんですが、それは理論負荷的なんであって、価値中立自体が原理的にありえない(つまり、もし価値中立なら科学自体が成立しない)んですね。
ヴェーバーの主張が無意味だと言っているのではありません。有害だと言っているんです。「職業としての学問」で主張されたことは、例えばヒポクラテスの誓いのような意味での職業倫理であれば、有意義でした。しかし、それを超えて科学の基礎を勘違いさせる内容になってしまいました。社会学が精神科学の中で現在、存在感が薄れている、それを予期させる一幕だったといえるかもしれません。
さいごに
現代に生きる私たちは、クーンのパラダイム、および数学における公理という概念の重要性をしっかり分かっておく必要があります。もう、素朴な(時代遅れな)科学のイメージとはおさらばしましょう。さいごは平易だけれども、それゆえ大事なことで締めます。
心理学とか、脳科学とか、行動経済学とか、こういった実験でこういった事実が明らかになっている。したがって……というようにそれぞれはそれぞれのパラダイムの中で真理であるものを、継ぎ接ぎすることはできないですよ――少なくとも混乱のもとですよということです。上で紹介したように、たとえ同じ言葉(動機、生産性など)が使われていても、基本的には通訳不可能です。もし、継ぎ接ぎがしたいなら、パラダイムを越境できる理由を説明できないといけません(そんなことは個人では無理でしょうが)。
一言でいうと、世の中には科学的であることを装った非科学的なメッセージが多いということです。
さいごのさいごに
ここまで読まれた方はお気づきでしょう。「じゃあ、おまえの哲学者紹介はどうなんだ」と。「現代のパラダイムでしか判定してないだろ」と。そうなんです。だから、わたしの紹介は解釈であり、なによりも真理……という言葉が重ければ、正しい解説ではないんです。ただ、価値中立でないことを自覚しているのみです。
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