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コロス(合唱):統治とアナーキー

 先日、読書ノートの記事が一区切り着きました。予告していたのは2冊なんですが、あらかたポイントも明確になったし2冊目には取り組まなくてもいいかな……と、実際に2冊目の目次を見ながら思っていたのですが、改めて表紙を見ると「真理と勇気」という表題の下に「自己と他者の統治Ⅱ」と書いてある……のを見つけて、まぁ……しょうがないですね。

 しかし、区切りは区切り。ある種の感想のまとめを書きたいと思います。
 書く内容としては、各記事の「私的コメント」部分では不十分だった読解のポイントを補ったり、あるいは、全体を通しての現代的意義を抽出したり、もしくはいわゆる解題という、解説を行うことなどが思いつきます。しかし、よく考えたら私は学者でも研究者でもない。解説に至っては、本の巻末に専門家のものが既にあります。……ということで、これらは全部、控えておきましょう。もし、追加で知りたいことなどがあればコメントなりでお知らせください、ってことでいいですよね。

 最初の(というか唯一の)感想は、「パレーシア」について、例えばウィキペディアなどとは比較にならない情報量を提供できたことは良かったと、思います。感想は以上なので、以下は……そうですね、15回目辺りから頭に浮かんだことを書きます。よくある、一読者の的外れな備忘録に相当するものとお考えください(とはいえ、以前からほのめかしていた「ぬるくない話」のつもりです)。

なぜ個人の統治なのか

 講義集成7〜12(そして13)を通じて、フーコーは、自分の残り少ない時間の中でなぜ統治というテーマを選んだのか。並行していたのはセクシャリティからはじまる『性の歴史』全4巻で、例えば「告白」などはパレーシア研究とも重なるものです。そういう重なりはあるものの(統治とは別物としての)セクシャリティをテーマにする理由はなんとなく分かるような気がします。まぁ、本人の性嗜好もそうですが、彼が実際に行っていたこと(部分的には政治活動を含む:これらは、『フーコー・コレクション』の別冊で通時的に知ることができます)とつながっていますし、また、理論的にも『監視と処罰』からの連続性も感じられるからです。
 一方で、統治――順番からすればまず「統治性」――というテーマは、『監視と処罰』からの断絶を、私は感じます。人(研究者)によっては、生権力と統治性をつなげていますから、もう少し丁寧に区切ると、私の感じる断絶は「統治性」から(個人の)「統治」との間のものかもしれません。
 「個人」……つまり「人」の統治とは何か。個人ではない、いわゆる「集団」の統治というのは、私たちにとって馴染みのあるガバナンスってやつです。会社ならコーポレートガバナンス。一方で、フーコーがテーマにするのは個人であり、それは講義集成12のタイトルの通り「自己と他者の統治」です。時系列でいえば、自己の統治から研究を進め、中世からまさに時代を遡っていきながら、古代ギリシャの民主制において、他者を統治するパレーシアを見出しています。少なくとも西欧において我々に残されたテクストの末端まで遡ったといえるでしょう。つまり、ソクラテス以前の哲学者(Vorsokratiker)のテクストですが、そこには半ば神話、半ば悲劇としてアテナイの理想的な民主制が見出されます。そして、フーコーも強調していましたが、プラトン哲学というのは、民主制以後のパレーシアであり、パレーシアの場所(民主制から君主制へ)の大きな移動がありました。そのとき、一つは弁論術との決別として、もう一つは学問との決別として、哲学のいわば再誕が起こるのであり、その中心に(弁論術も学問も扱えないものとしての)パレーシアがあるわけです。
 ……なんだかんだいって、解説じみたことを書いていますが、もう少しお付き合いください。そのように哲学者=唯一のパレーシアストと描くことによって、(パレーシアがキリスト教に預かられていた)中世をぶっ飛ばして、16世紀以降の近代哲学とは、パレーシアの哲学への奪還という話につながるわけです。このフーコーのフィクションのなかで、哲学とパレーシアとの結びつきの重要性はよく分かりました。ところで、パレーシアはそもそもなんのために必要なものだったか――それは、統治です。パレーシアが哲学と結びついたとき、自己と他者――最も狭く定義すれば、哲学者と弟子の二人――の関係性が重要な要素になったものの(そしてその手段がたくさん分析されるにせよ)、統治が問題なんです。

随想エッセイ

組織の機能不全による害

 権力は腐敗します。権力機構は、と言った方が正確かもしれません。権力について教科書的に思い浮かぶのは三権(立法権、行政権、司法権)ですが、それらの権力自体はもしかしたら腐敗/劣化しないものかもしれない。ところが、それを担う、「国会」、「内閣」、「裁判所」(法の執行は「警察」)……これらは、もう、本当に腐敗しています。三権がちゃんと分立できてないとか、結局最高裁では国が勝つよねとか、警察の保身のための不祥事とか、挙げたらきりがないし、その内容も酷いものです。そして、第四の権力といわれるマスメディアは……その劣化よりもなによりも、パレーシアが極端に少ないです(追従の言説を垂れ流すのが主な役割になっています)。
 しかし、不祥事というのは、権力機構だけではありません。先のオリンピックも酷いものでした。年金制度は何年も前に一騒ぎあったのに、そこから改善しようとはきっと誰も思わなかったんだろうなと感じます。そしてもちろん、完全に民間の企業にも、たくさんたくさん不祥事があります。つまり、組織は腐敗/劣化し、それが無駄だけでなく多くの害のもとになっています。その種の害は、経済的損失だったり、特定の個人の命(が失われること)だったりするのですが、総じて、力を――より良くしようとしたり、浄化しようとする力を失わせるものです。
 フーコーは、パレーシアによる「浄化」について消極的に――つまり、そういう機能もあることはある程度に触れています。人の集団、組織におけるガバナンスとは、その形式的な側面(制度)はどうでもいいのであって、実効的な浄化作用を働かせることができるかどうかが問われるものです。もし、昔よりも(腐敗/劣化)が「ましになった」のなら、その種のガバナンス(統治)のおかげかもしれません。あるいは、まだダメなところがあるのは、ガバナンスが効いていないからだ、という意見も(聞き飽きるぐらい)あります。

トロツキズム

 『フーコー・コレクション』別冊の年譜に、フーコーが一時期、自身をトロツキストと自称していたことが書かれていました。ところが、私はトロツキーについて、例えば、マルクスやレーニンやスターリンの違いを説明できるほど(ようするに何も)知りませんでした。相談したところ、親切な友人がよい本を紹介してくれたので、遅ればせながら読んでいるところです。
 トロツキーが目指したものは、ようするに世界社会主義の達成(永続革命とかいわれるもの)ですが、それ自体は手段です。いや、トロツキーにとってはそうではなかったかもしれませんが、トロツキストを自称していたころのフーコーにとっては違ったでしょう。その目的は、すごくざっくりいうと腐敗や劣化のない統治――その結果として安寧な暮らしだったと思います。つまり、どのような政体ポリテイア(現代で言い換えると、どのような組織形態や規模)であろうが、ガバナンスを効かせること。それはアナキズムが諦められた後の時代のアナーキーであるように思う……言い換えると、政治を諦めた後の(政治的手段によらない)生活の様式スタイル(生の形式)です。

再びなぜ個人なのか

 1984年(フーコーの没年)の社会というのは、(私たちの世界のいわば逆行現象も相まって)大きく見れば現代です。彼自身も小集団を組織していましたが、一般的な組織の腐敗/劣化についても同じようなものだったでしょう。彼の経験のなかには、ガバナンスが機能しない事態も含まれていると思います。極端な言い方でありながら、現在でも同じであると思うのは、結局、ガバナンスとは個人の問題です。逆にいえば、組織のガバナンスなどそもそも機能することを期待してはいけないものです。個人が、自分が、君主(責任者)が、不正に対して本当のことがいえるのかどうか。追従の言説がマジョリティの中で、自分の名前のもとに、真実の語りをできるかどうか。それだけが、腐敗や劣化を遠ざけることができる……と思いませんか。
 集団や組織と個人の違いは、すごく単純で、魂があるかどうかです。魂の教導が真実への唯一の道ならば、集団や組織が真実に辿り着くことはありません(念の為。私はスピリチュアルな意味で魂という言葉を使っているのではありません)。つまり、フーコーが最晩年に個人の(=二人による)パレーシアに希望を見ていたとするなら、諦められているのはアナキズムだけではなく、トロキズム(運動の組織化)(そして両方ともにいえる、いわゆる「革命」)もそうなのです。そして、当然ながら、諦めたあとに向けられる眼差しは、希望です。
 フーコーは、思想に対して道具(ツール)を提供したと良い意味でも悪い意味でも言われます。単行本はそうでしょう。統治性という概念もそうです(それをツールにした極めてレベルの低い学問書を思い出しました。そういうのがあってもいいですけど、わざわざ訳して出版しないでほしいです)。しかし、「自己と他者の統治」……少なくとも私は、これは道具ではなく、希望である/あったと思います。
 しかし、こういう書き方は少々感情的かもしれません。20世紀にはたくさんの希望がありました。その多くが潰え、冷静に物事を見れる人ほど残っているのは絶望だけという現状において、数少ない残された儚い道……このぐらいの表現が妥当でしょう。この希望の光は、本当に小さなもので、明るいところにいては見えません。暗いところからしか判別できないものです。

歌でもなく詩でもないが、12と13の間にある注釈

 私たちにとって、個人のパレーシアとは、組織に所属しない個人に限定されるものではないはずです。組織に所属しながら(ソクラテスがそうだったように)ときにパレーシアを発揮し、ときにパレーシアを発揮しない。直接的には政治に関与しない……等々、特に「○○ではない」という言葉で特徴づけられるあり方こそ、現代であり得、そして効果を発揮でき得る生の形式だと思えます。これが政治的ではない政治的結論です。
 近代哲学の「○○すべき」「○○であるべき」という言葉の使い方、ニュアンスを濾したあと、残っている部分からさらに「我々」等の複数形を取り除いた残骸から、パレーシアを見つけることができるだろう。これが、その名の通り哲学的な結論です。

不十分であることは分かっています。今のところは、以上です。

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松岡鉄久
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