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『7つの習慣』を読んでみた2:霧

 『7つの習慣』のなかでは、有名な人物からネットで検索しても正体不明の人物まで様々な人名が挙げられます。その中で、言及される数が最も多いのはヴィクトール・フランクルです。著者はフランクルから多くの示唆を得ているわけですね。例えば、心理療法としてのロゴセラピーなどが挙がっていました。そういうわけで一つの試みとしてフランクルのテクストと比べて読んでみようってことなんですが、私は、『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル、新版、池田香代子訳、みすず書房、2002年)しか持っていません。つまり、比べるといってもかなり限定的(手抜き)だと思ってください。ちなみに『夜と霧』も世界的によく売れた方の本ですが、『7つの習慣』とは桁が違います。


著者はフランクルを片面からしか捉えていない?

 とりあえず、一つの引用からはじめます。

この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間(中略)このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れ込んでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。(中略)
 強制収容所の生活が人間の心の奥深いところにぽっかりと深淵を開いたことは疑いない。この深みにも人間らしさを見ることができたのは、驚くべきことだろうか。この人間らしさとは、あるがままの、善と悪の合金とも言うべきそれだ。

『夜と霧』144-145頁

 重要なのは「まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない」というところと、「この人間らしさとは、あるがままの、善と悪の合金」というところです。『7つの習慣』の著者は、「まともな人間だけの集団」とその効果性について饒舌に語ります。また、人間らしさについて……「人間だけが授かり、人間を人間たらしめる四つの能力(自覚・想像・良心・意志)がある」(105頁)とし、この「四つの能力」については要所要所で言及されるのですが、ある箇所では、そういう能力を発揮しないこと/人を「下等動物」(593頁)と断じます。
 前述のフランクルの洞察と比べてどうでしょうか? 私は、著者はフランクルのテクストの片面しか捉えていないと感じます。
 (前の記事の)アリストテレスの件とは違って、著者はフランクルのテクストについて確実に私よりも読み込んでいるはずです。もちろん、著者なりの解釈というのはあっていいわけですが、「ヴィクトール・フランクルも、人生に意味と目的を見出すことがいかに重要か力説している」(579頁)と書くとき、それがフランクルの片面だけにしか光を当てないのなら不誠実なエクリチュールだと思います。もちろん、ここでそのように断定するのは早すぎます。では実際に他の箇所についても、いくつか参照していきましょう。

人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない(中略)つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所にいれられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。

『夜と霧』110-111頁

 フランクルがこのように書くとき、なるほど著者が強調するように、(収容所の独房においてもフランクルには)「自分の身に起こること、すなわち受ける刺激と、それに対する反応との間には、反応を選択する自由もしくは能力があった」(104頁)という場面(上の引用は十中八九、実際に著者が参照したであろう部分です)が描かれているように読めます。
 刺激と反応との間の選択の自由は、著者にとって「人間の本質を支える基本的な原則」として最重要ポイントで、英語のレスポンシビリティ(responsibility)=反応response能力abilityという言葉の解釈を介して、自由と主体性proactivityが結び付けられます(108頁)ちなみに、本書において主体的proactiveであることの逆は、反応的reactiveと定義されるのですが、こういう部分(レスポンスとリアクティブに同じ日本語:「反応」を当てること)雑な訳ですね。勘違いの元です。
 失礼、話をフランクルに戻して彼が人間、あるいは生の意味をどのように重要視していたかをみましょう。

最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。

『夜と霧』112頁

 著者はまさに「仕事に真価を発揮できる行動的な生」に価値を置いています(「責任感があり主体的で、自己管理のできる人が自由裁量を与えられて仕事に取り組むとき、個人と組織にもたらされる結果に私は常に驚きを覚える」421頁)。フランクルはそのような生について明確にそれだけではないと書いています。著者はおそらく意図的に片面に光を当てていません。読書について著者の言葉を借りれば……

まず理解に徹しようと思いながら読めば、知性の刃はいっそう鋭くなる。著者が言わんとしていることを理解しないうちに、自分の経験に照らして内容を判断してしまったら、せっかくの読書の価値も半減してしまう。

572-573頁

 ようは、理解に徹さなくても半分はゲットできる――これが著者の読書の基本姿勢なんでしょう。ところが、だんだんそれ(半分)すらも怪しくなってきます。
 別の箇所で、フランクルは強制収容所で生き抜くために……という文脈から次のように書きます。

強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的をもたせなければならなかった。被収容者を対象とした心理療法や精神衛生の治療の試みがしたがうべきは、ニーチェの的を射た格言だろう。
 「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」
 したがって被収容者には、「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおそましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。

『夜と霧』128-129頁

 ニーチェの何から引用したのか書かれていないのはイラつきますが、フランクルは確かに、著者が重視している「目的を考え、何かを成し遂げること」の必要性を記述しています。しかし、フランクルは生きる意味をそんな観点から重要視していません

わたしたちは生きる意味というような素朴な問題からすでに遠く、なにか創造的なことをしてなんらかの目的を実現させようなどとは一切考えていなかった。わたしたちにとって生きる意味とは、(中略)「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことにも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。

『夜と霧』131-132頁

 頁数に注目していただきたいのですが、フランクルのテクストは一連のものです。著者はフランクルの、いわば生きるための必要性/手段の部分だけ切り取って、フランクルが体験を通じて得た洞察に目を向けていない。
 しかもよくよく内容を比べてみると、著者はフランクルのテクストの総体を捉えていない(片面からしか見ていない)――というよりむしろ、著者が重要だと本書で定義づけるものをフランクルは否定しているかのようです。フランクルは強制収容所という極限状態から書いており、著者はそうではない日常から書いていることによる違いでしょうか。
 私はその逆だと思います。ここは私の意見ですが、極限状態を再生産し、人をそこにピン留めしようとしているのは著者の方だと考えます。言い換えると、極限状態で必要になるようなものを日常化している逆にフランクルはそんなものはいらない(無意味)といっている。テクストに対して特に捻っていないストレートな読解だと思いますが、皆さんはどう思われますか。

生の目的/幸せについて

 『夜と霧』には、「目的」についての重要な後日談も書かれています。収容所から出ることのできたサバイバー達の話です。少し長いですが抜粋しつつ見てみましょう。

先に述べたように強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だった。ところがどうだ。人によっては、自分を待つ者はもうひとりもいないことを思い知らなければならなかったのだ……。
(中略)夢にみて憧れの涙をさんざん流したあの瞬間が今や現実になったのに、思い描いていたのとは違っていた、まるで違っていた人間は哀れだ。(中略)何年も心のなかでのみ見つめてたあの家に向かい、呼び鈴のボタンを押す(中略)しかし、ドアを開けてくれるはずの人は開けてくれない。その人は、もう二度とドアを開けない……。
 収容所にいたすべての人びとは、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、(中略)幸せなど意に介さなかった。わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえるのは、幸せではなかった。にもかかわらず、不幸せへの心構えはほとんどできていなかった。

『夜と霧』155-156頁

 フランクルはこの「解放された人びとが、新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意」を、のりこえることがきわめて困難で、「精神医学の見地からも、これを克服するのは容易ではない」としつつも、それをケアするという使命感に言及しています(それが後の心理療法繋がるのでしょう)。目的/幸せであることに汲々とする著者との……形容しがたいギャップ――どちらが優れているという話ではなく、単純に著者はフランクルが到達した地点のもっと手前にいる、そういうギャップを感じませんか。強いて言葉にするなら、アウシュヴィッツの後の時代にアウシュヴィッツの前の時代にいるような、そういうギャップです。だからこそ著者は「自分の主体性を認識し、育てるために、なにもヴィクトール・フランクルのように過酷な体験をする必要はない」(147頁)と書くことができるのでしょう。

インサイド・アウトのよくないところ

 この記事で最もお伝えしたい――しかしおそらく既に多くの人が指摘しているであろうことを含む――のは、上述の「ピン留め」がインサイド・アウトにおける多くのクソ要素のうちの一つということです。
 「ピン留め」(という、いわば後景に対して)の前景としてインサイド・アウトはいわゆる自分の影響の及ばない環境のようなものについては受容します。

 自分ではコントロールできない問題の場合には、その問題に対する態度を根本的に改める必要がある。どんなに気に入らなくとも、自分の力ではどうにもできない問題なら、笑顔をつくり、穏やかな気持ちでそれらを受け入れて生きるすべを身につける。こうすれば、そのような問題に振り回されることはなくなる。

133-134頁

 この点は、インサイド・アウトの弱点――というか、特徴の一つとしてよく知られていることだと思います。んまぁ、それはそれでいいかと思いながら本書を読んでいました。職場の嫌な上司とかそういうレベルの話ならありですよね。でもまさかフランクルの名前(と肯定的な言及の数々)が出てくるとは思いませんでしたよ。それはつまり、強制収容所のようなものを「自分の影響の及ばない環境」の例に……モデルにしているんです。そんな文脈で人間性とか誠実さを語るのは、常識的に考えて頭おかしいと思います。著者の頭がおかしいだけで済めばいいんですが、これが世界のベストセラーとして現在でも読まれ続けているんですよ。そりゃ、世界がよくなるわけないわな。
 単純なことです。強制収容所(および現存するその改良版)は世界から排除すべきものです。ところがインサイド・アウトは構造的にそういう環境的なものの排除/抵抗ができません。

「7つの習慣」とは、(中略)原則を中心に据え、人格を土台とし、インサイド・アウト(内から外へ)のアプローチによって、個人の成長、効果的な人間関係を実現しようという思考である。

57頁

 文章の後半が重要で、個人の成長、効果的な人間関係、この範囲しか対象になっていません。そして、「人間関係」というのもほんと身の回り――家族とか職場の上司部下、といったものです。この様な狭い範囲のことを本書は一貫して「公的public」と称します。英語だろうが日本語だろうが、一般的な意味での「公」と、本書の「公」は大きく異なっていて、本書では地域社会や国、世界といったものは埒外となっています。
 念の為補足しておくと、インサイド・アウトでも外部環境を良くしていく例は、本書で複数挙げられています。とはいえそれも自分が影響を及ぼせる範囲からに厳密に限定されています(「関心の輪/影響の輪」の節が該当)。結果として「国家財政、核戦争、等々」(127頁)は、国家の大臣クラスのような人以外には(構造的に)関心の外になります。
 でもですよ、小市民であっても、国家財政のことや核戦争、あるいは環境問題、もしくは紛争の犠牲としての飢餓といった事柄に関心・問題意識を持つのは健全だと私は思います。そして(ここが大事なところですが)そのような問題意識を持つときに「自分」や「家族」といったサイズでは考えないものです。「人類」とか「地球」といったサイズの思考になるはずです。
 くどいようですが、ここは丁寧にフォローしますとインサイド・アウト(思考)は、一足飛びに人類や地球といったサイズから考えるのではなくて、自分の影響の及ぶ範囲から、その(良い)影響を広げていくことで――例えば、飢餓状態にある人びとへの奉仕活動につながりうるものです。このことは、何も悪くありません。構造的欠陥……というより欠落と思えるのは、ある種の「滅私」――自分や家族ではなく人類の未来を守る、もしくは破滅的未来に対する憤りに端を発するといった様々なアクション、こういったものの不在です。こういうことって、別に映画やSFだけじゃなくて、普通に生活してたら普通に関心を持つことだと思うんですけどね。

分断された世界で

 『夜と霧』の「訳者あとがき」で21世紀初頭のイスラエル事情について「フランクルの世代が断ち切ろうとして果たせなかった悪の連鎖」(169頁)と言及されています。私たちはその延長線上……であるものの、かなりエスカレーションした状況に生きています。インサイド・アウトは、この手の分断に対して無力です。しかし、それはまだいい方です。分断を助長しているわけではありませんから。ところが、残念なことに『7つの習慣』という本――そのなかで主張されていることは、多かれ少なかれまさに現在進行系の分断を助長するようなものでありえます。この本についての最後の記事ではそのこと――表面的な主張もしくは論理構成の内容ではなく、生をある方向へ啓蒙するテクストとしての特定の傾向について、取り上げたいと思います。

補遺

 今回のシリーズは(少なくとも数回は本書を)内在的に読んでからの感想をベースにしています。したがって、完全に外在的なアプローチになる以下の件は示唆するに留めておくことにします。
 随分前の記事(の一部)で取り上げた哲学者にレヴィナスがいました。彼はフランクルと同時代人でした。実に興味深いのはレヴィナスも人間の主体性や自由をレスポンシビリティから定義づけます。もちろん、『7つの習慣』における定義とある程度重なる部分もあれば、大きく違う部分もあります。私は、レヴィナスの試みは「フランクルの世代が断ち切ろうとして果たせなかった悪の連鎖」の一つだと思っていますが、だからといって彼の哲学を低く評価していません。むしろ、その先に行けていない現代の哲学を情けなく感じています。
 ということで、主体性や自由という観点からご興味があれば是非レヴィナスを手にとって見てください、というアナウンスでした。まぁちょっとガチの哲学書なので、いきなりは読みにくいとは思います。そうであれば、内田樹さんの本から入るのもいいと思います。

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