読解『アイデンティティと共生の哲学』3
8章は割愛します。マルクスやハーバーマスについては私が飽きているのが一つと、ヴェイユ抜きの「権利」云々は、ちょっと食傷気味ですから。しかし、ご安心ください。9章は「結」に相応しいテクストです。そしてこの記事の文章量が多いのは、末尾の「おまけ」のせいであって、私なりの結論はその手前で明示できていると思います。
第9章
エクリチュールの回帰
「せまい枠から人類と地球全体のレベルまで推しひろげる想像力と理性能力」「他人に解決をゆだねず、自分たちの力で困難や矛盾を解決していこうとする自力依存の意志と気力」「のぞましい世界や公共の利益を実現するために、十分に保証された討議の結果、納得できるのであれば、短期的には自分に不利益であってもそれをあえて受けいれる共和的精神」(345-6)
6章の躊躇はどこへやら、高らかに宣言されるこれらのテクストはその(もはやトクヴィル的ともいえる)内容はさておき、ポジティブで建設的な調子を取り戻している。
しかし著者は、近代思想の産物である市民化=文明化の装置から明確に離れようとしている。
また、在り方について次のように肉付けされる。
「こうした「ピープルネス」(ピープルとしての在り方)を気分として共有する社会は、生命の移ろいやすさ、傷づきやすさ、多様性と差異を、文化として尊重し、無理な発展=開発を追求しないやわらかい秩序の社会とならざるをえないだろう。」(351)。これまでのテクストの歩みを踏まえ(内容的に被差別や障害者などを包摂す)ることで、「とならざるをえない」という話法が著者のもとに返ってくる。
テクストの構造分析はもう終えてよい。虐殺器官のエクリチュール(読解1)が、おおきな戸惑いと躊躇を経て歪み、織り込まれること(読解2)で、その内容を大きく変えながらも、回帰する。この回帰を図式的に整理すると立憲的=権利の確立が脇に置かれ、共生――(共同体の)文化や秩序の構成が中心になるというものである。構造の分析は、以上だ。
349頁および350頁引用部は、6章で示唆された「実存的な生の倫理」と「共生社会の形成」とを両立させるための諸規範、ルールが書かれたものと考えてよいだろう。しかし、それはガチガチのルールではなく「やわらかい秩序」なのだ。やわらかい秩序について知りたい人は、是非、本を手にとってほしい。私が解説し、注釈を加えるようなものではない。
ピープル/ピープルになるとは
構造分析から離れて、本書から現代的意義を得るために、9章以降の主要な部分をピックアップしていき、適宜コメント加えたい。つまり、ここからは著者、花崎さん(以下敬称略)の主張に注目していくと同時に私の主張も述べていく。
一つ目、著者は「加害可能性と自己矛盾をかくさないこと」を選んだ。その理由は後で分析できるのだが、私はこの選択に同意しない。私が同意するのは、6章(読解2)で言及される死刑囚が至った、豊かに生きることの結論――(木が)人の目に見えない部分に年輪を刻むように……成長していくこと――このように、受け入れ難いもの(無力で曖昧な自分)を開示することなく受け入れることだ。この点についての花崎と私の考えの違いのひとつの例として、前回の記事の最後で「田中の引用」に「呪いについて」を対置してみた。
二つ目、「ナニサマでもない者」は初出の概念だが、350頁の引用部がその内実と考えていいだろう。この点について終章に言い換えがある。ピープルは「市民」という身分的概念の質を問うものとして――「市の民ではない海の民、山川林野の民、ある者は国民国家の成員とみなされず、また名目的にそうみなされていても、国民としての権利や義務の網の目にかからずに暮らしてきた民、そうした民といわゆる国民的市民とを対等に位置づけ、差異を捨象しない具体的普遍概念としてピープルを定義したい。」(387) そして、405頁では、「網野善彦の歴史哲学のカテゴリーを継承していえば、「無主・無縁」の原理をあたらしく自覚し、ピープルネスの倫理の核とすること」――このように「無縁」と結び付けられる。この点については後で言及したい。
ここでは「ナニサマでもない者が、そのままで生きやすい関係をつくること」というセンテンスに注目する。「そのままで生きやすい」というのは、「ありのままで」というしばしば「自分らしさ」とセットで語られる概念にかなり近いか、同じものであろう。しかし、花崎において、そのような在り方が確固たる(生産的で創造的な)アイデンティティから、様々な書かれ方で――明確に引き離されている。その引き離しは、様々に書かれる(上述の引用部)が、これらこそが、花崎が「アイデンティティと共生の哲学」に内部に設置したセーフティロック――その様々な起動ボタンたちであると、私は考える。翻って「加害可能性と自己矛盾をかくさないこと」は明らかに、そのような起動ボタンの一つでもあるのだ。
バルネラビリティ
テクストでこれまで何度か書かれてきた「傷つき易さ」(354)について、ここで改めて(ローマ字を伴って)「対人関係の非対称性に関わる基本的観念」としてフォーカスされ、以後キータームとなる。久重忠夫の『罪悪感の現象学』を分析するかたちで、論じられ、受苦可能性とも言い換えられる。ポイントは、久重はあくまで弱者が(強者に対して想像力として)持つもの、と考えるのに対して、花崎は「「弱者にとっての推量的想像力」は、著者(久重)がいうような限定的なものではなく、もっと屈折して深く、それが内面で昇華された場合には、しなやかでゆたかであることを、差別問題の経験や思考は示唆していると、私(花崎)はコメントしたい。」とする。そこから、「受苦可能性が強者にも弱者にも共通である」(361)ことを明証的な原理にすると花崎は主張する。
この点についてだが、まず、読解として「昇華された場合」とは、例えば6章の「田中の引用」部分の場合を指していると考えていいだろう。vulnerabilityをこのように考えるならば、実質的にそれはレジリエンスを含めることになると私は考える。レジリエンスは、ビジネスシーンでは「ストレス耐性」といったバカバカしいニュアンスで使われるが、「弾力」「しなやかさ」という意味であり、花崎はまさにその言葉を使っているので妥当だろう。つまり、(肯定的なニュアンスで)花崎のいう受苦可能性は、バルネラビリティ+レジリエンスであると解釈したいと思う。
また、「強者にも弱者にも共通」ということについて、少し先のテクストでは「行為受動相と行為能動相のそれぞれにおける受苦可能性」(383)とさらに抽象化=一般化されている。
三人称のわたし
花崎は、上述の久重の研究と自身の過去の論考とのかさなるところとして、「三人称のわたし」――「一人称−三人称」構造という二重性において自分を捉えること、を紹介する。この着想は森有正の論文から得たらしいが、森は「オルガン奏者が演奏に習熟する経験」(フロー状態と言い換えていいだろう)から、客観に徹することで主観が深められるという趣旨でそれを述べ、そのような客観を「「人間的客観」「三人称的客観」と呼び、「科学的客観」「非人称的客観」と区別した」(364)とのことである。
関連して、波多野精一の著作を媒介にしつつ「「我と汝という一人称−二人称関係は、それぞれの「我」において「一人称−三人称」の二重構造を形成し、展開することをつうじて深まる」としている。それは「相互に二人称的他者の中心を冒しあわず、相互に自分を譲り渡さず、しかし、相互に自己の中心における他者性を照らしあって、共通の価値にめざめ、近づくという、倫理的な――自他を歪ませない自由――関係」(367)だと述べる。内容的には、「実存的な生の倫理」と「共生社会の形成」との両立についての理論的補強として読むことができるだろう。
上述の内容は、次のもう一つのキータームと深く関連するのだが、私はここに花崎がミスを……決定的なミスをしていること(僭越ながら)指摘したい。森の論文から引いたとはいえ、三人称の非人称的側面を除外した。それはつまり出来事としての自然(人がいようがいまいが雨は降る)の除外である。(構造分析においてピックアップはしてこなかったが)花崎は、エコロジー運動に深く長くコミットし、そこから多くの示唆を得てきたにも関わらずである。
それゆえ、以降、花崎にとって自然は単なる感謝すべき「天の恵み」であり、「それを受けとる人間自身を「無償性」の環に身を置く倫理観をまなぶことができる」(391)機会として考えられるだけのものになっていること――少なくともテクストはそれを示している。
〈非人称的なものについて〉私としては、例えばガタリの「三つのエコロジー」(①環境と②社会的諸関係と③人間的主観性)をすべて関連付けて考えるエコゾフィーと比べるなら、著者は①を切り離したように見える(②と③についてばかり論じられる様子が下記に見られるだろう)。
また、バンヴェニストが三人称の特徴として挙げる非人称性との関係で言えば、例えばレヴィナスの絶対他者や他性といったものの切り離しでもあるだろうし、それは結局「一人称−二人称」への閉じこもりである。だからこそ、「三人称」ではなく「一人称−三人称」と書かれるのだろう。したがって、少なくとも非人称的「外」については開かれることのない「倫理的なコスモス」――これが花崎の「共生」のひとつの理念型だと言えるだろう。
ピティエと三人称
ピティエとは、憐れみという意味の言葉だが、花崎はこの言葉が指し示す意識作用を「「ピープル」としてのヒトが、受苦の経験をつうじて自分の意識の中に「他者」の存立の場所を空け、私から他者へのまなざしと他者から私へのまなざしを想像力において照らしあわす、または重ねあわす作用」(368)とする。「ピープルとしてのヒト」はもちろん、「ナニサマでもない自分」や「ただの人」であろう。
そして、「ピエタス(優しさと尊敬からなる愛情)があるということは……三人称的他者意識をふくんだもの」であり、「ピエタスの感情は、自分も他者も、勝手に処分できる私有物ではない超越性を帯びていることへの自覚にもとづいており」、「他者との根底的断絶を無条件で受けいれ、自分自身についても、自分に未知な自分、他者としての自分を、自分の内部の異質なものとしてかかえ、その異質なものと共に生きていくありようがピエタスのある生き方だ」(369-370)と書く。また花崎は、ピティエが日本語の「憐れみ」とぴったりと重ならないので、一計として孔子の説く(憐愍とともに尊厳なものへの尊敬をふくむ愛を意味する)「仁」を訳語にするのはどうかと書いている。
終章
共に生きるとは
花崎の主張を整理すると、まず集団として「「ピープルになる」とは……私と他者とがいつでも加害と受苦の関係になる可能性と必然性……を承知したうえで、しかもその場から「共に生きる」関係を目指すことである」「加害可能性と受苦可能性が固定的にならない関係の形成、それが「共に生きる」ことの必要条件」であり、「公正、無主、無縁、反暴力といった理念が力を得てこなくてはならない」(388)と書かれる。
次に、個人(の内面)として「自己同一性へとしがみついて他者が目にはいらない自己中心的世界を脱すること」すなわちそれが「三人称のわたし」で考えることと書かれる。三人称の場をひらくこととは「対人関係の非対称性という各人にとっての所与の構造に橋を架ける主体のあり方」であり……
一点だけ指摘すると、この文章では、プラトン−ピュタゴラス的「浄化」作用について参照が明示されていると言っていいであろう。その種の浄化によって生まれるものが(続くテクストにある)「精神的次元における」「夢やヴィジョン」である。すなわち「ヴィジョンと意志という精神的契機が、行動の相にむすびついてはたらきだすとき、あたらしい希望がうみだされる。」(390)
このことを「孟子の説く志と気と体の連関の論」から「志をヴィジョン、気をスピリットと読みかえてみると、いまの世にもつうずる教えである」「この連関においては、あくまで志を基本にしなければならない」「理想やヴィジョンを確立することが、気力をみちびきだす源であるという教えは真理ではなかろうか。」(393-4)
現代とのつながり
もちろん真理だろう。「いまの世にもつうずる」というのも、まさにそうである。読解者である私は、それが何に通じているのかをコメントすべきだろう。簡潔に言ってそれは、主に現代の企業(活動)である。そこでは、パーパス経営やエンゲージメントを高める取り組みによって「プログラムや行動プラン提起の主導性、自発的活動の調達力といった能力が競われ」(403)ているのだから。
つまり、花崎が批判する「近代ヒューマニズム」を〈きちんと〉乗り越えた、社会ー経済活動に通じているということだ。このような現代とのつながりについては、おそらく花崎の意図するところではないとは思う。しかしながら、傍証をしめすことができる。孔子にしろ孟子にしろ、儒教へのまなざしがそれである。そして、志(ビジョン)や意志といったものを最重要視する花崎のテクストは現代の企業が大事にしてることにそのまま当てはまる。そしてこの部分こそが前回(読解2)の228引用部、共生社会をどう形成するかというモチベーションに該当する箇所だろう。
結(論)
花崎の9章、終章のテクストについて、私なりの批判のポイントを整理する。
まず、近代思想を批判しつつも「理性の開発」(350引用部)からは離れなかったために、近代の延長としての開発−発展という在り方から単純に「差別」を引き算しただけのものになっているのではないか。だから、「ナニサマでもない者」や「ただの人」といったインパクトを感じさせる主体概念も、内実は「差別をしない人」程度の意味である。
それゆえ、花崎が記述する在り方が「無縁(者)」と結びつくことはない、と言い切れる。網野のテクストを読めば分かるが、無縁者は、自ら望ん(意志)でや自発的にそうなった者ばかりではない。むしろそれは少数派だ。やむにやまれぬ事情、それも自分のコントロールの範囲を超えた事情で、無縁者になること――能動的でも受動的でもない中動的な出来事(ある種の運命)、花崎はそのような契機を考えることはなかった。能動と受動の二元論で考えることを貫いたわけだが、それは明らかに花崎の意図である。花崎に「中動態」という概念が必要だったとは思わない。しかし、テクストの中では何度もそのような状況、事柄、出来事への示唆(エコロジーに関することや差別に関する考察)があったし、花崎はそのたびに立ち止まっていた。ところが、時にウェーバーを引いてきたり、時に提示されている出来事を離れ自分事にしてみることで「能動態へと転ずること」や「自分自身がひろがるという授受の関係をつむぐこと」(386)といった方向に引き寄せていった。したがってきわめて論理的帰結として、388引用部に「無為」という言葉が加わることはない。私が思うに、共生社会について花崎がその形成に必要とする「社会関係における価値評価」(その動機づけ)を欠くこと=価値評価をしない=価値評価の装置を働かなくさせることによって、6章で田中が論じ(そして花崎が納得がいかなかっ)た労働不可能性を前提とする平等観を考慮することができるのであって、花崎はそちらを選択しなかったのだ。
次に、既に指摘したように三人称の非人称性を考慮から外した。絶対他者(共感することが原理的に不可能な他者)を考慮しないというのは、共同体を現実的に考えるために妥当な判断だろう。しかし、そのことで花崎の「共生」は多くのものを失っている。例えば身近なところで、他者(この場合の他者は二人称)と円滑、あるいは建設的なコミュニケートがむずかしい「コミュ障」、あるいは様々な精神障害――花崎が「綜合」や「全一性」という言葉を使うたび、統合失調症は退けられている。さらに(記事では割愛したが)インテグリティが、尊厳/名誉感に結び付けられるにおいては、わたしは、精神障害者や重度の身体障害者が軽視されているとすら感じた。これは極端な事例だが、少なくとも疎外はされている。花崎が「一人称−三人称」という言葉で実質的に豊かな「一人称−二人称」関係について書く(367引用部)とき、ASD(自閉症)に場所は与えられていない。
三人称から非人称性を抜き取ることで、それは二人称となり、二人称は実質的に一人称であるから、いわば「一人称−一人称」である。その構造は「自分−自分」という自分主義的なものであるから、端的に「閉じているのはどっちですか」と問うことができるかもしれない。
テクストの豊富なテーマ――エスニシティやエコロジーを捨象して図式的に述べると、花崎は「アイデンティティ」(という言葉の構造)が持つ差別性に対してセーフティロックを内蔵したが、「共生」社会の形成においては、(潜勢的/現勢的な)差別に対するセーフティロックを設けていない。あたかも設けようとしていないかのようである。立憲−構成的な言説が薄まるのと比例して、ヴィジョンや意志といった「精神的契機」(390)――平たい言葉なら、いわば〈心構え〉(あるいは動機づけ)の言説が色濃くなっていくことがその一つの現れのように私は思う。そしてその実際として現れるのが、唐突ながらも確信的な「儒教」への参照である。
その手前で花崎は、プラトン的浄化を選択した。私たちはもう一つの在り方(キュニコイ)があることを知っている。キュニコイの理念が無主・無縁と近しいことも知っている。一方で、花崎が結論部に置くのは、孔子・孟子(儒教)である。このことは象徴的だと思う――昔、キュニコス派は「犬儒派」と訳されていた。この訳が採用されなくなったのは、まさにキュニコイが「儒教」とほとんど反対の特徴を持っていることが認知されたからだ。
とはいえ「キュニコイの生の形式こそが共生の生の形式ではないか」というコメントは、花崎が展開する議論の場から離れすぎている。もっと近いところで別の参照対象を示して、読解を終えたい。それは、老子思想だ。『老子の教え』ディスカバー・21、2017年を参照する。ちなみにこの本の著者は安冨歩である。
老子思想抜粋
最高の善は、水に似ている。水は、万物に利益を与えつつ、また静かであり、多くの人が嫌がる低い場所にいる。これが、神意にかなった合理的なあり方、すなわち「道」である。
「静か」というのは静的という意味ではない。老子の世界観は動的(生成変化)である。
「合理的」というのは、理にかなったという意味。
生きるためには、ものごとの根源に立ち返り、自らを、そのあやうさに委ねればよい。確かなものにしがみつこうとするから、確かなものに頼ろうとするから、あなたは不安になってしまう。
動的な世界はあやうさを含むと言われる。「根源」「あやうさ」――カオスとコスモスが相互浸透するカオスモーズを思い起こさせる表現だ。花崎に引き寄せるなら、「あやうさ」とは受苦可能性であろう。それは老子思想においては、「昇華」されるようなものではなく、身を委ねるようなものだろう。
「確かなもの」の例として考えられるのはアイデンティティやインテグリティもしくは、構成的な権利、といったところか。
感性が豊かに機能して、生き生きと生きる状態を、「仁」と呼ぶ。人間ばかりでなく、天地もまた、感性を持っている。もし天地が、その感性を失って、「不仁」であるなら、天地は万物を無慈悲に扱うだろう。しかし実際には、天地は常に仁である。(中略)仁はあまねく存在し、誰にでも備わっており、しかも、果てしなく作動する
孔子、そして花崎が意味づける「仁」と比べてほしい。「人間ばかりでなく、天地もまた」「誰にでも備わっており」……私はこの言葉に限っても老子思想の方が花崎の目指した「共生」に親和的ではないかと思う。
倫理に関する知識を身につけて、ものごとを、美とされるものと、悪とされるものとに分けたところで、両者の間に、どれほどの差があろうか。人を畏れさせる者は、また人を畏れざるを得ない。あらゆる区別の境界はぼんやりとしており、いまだ定められたことなどないのだ。区別を受け入れる俗人は、それで安心して喜々としており、まるでごちそうに招かれて、春の花見の台に登るかのようだ。区別を受け入れない私は、身じろぎもせず、じっとしていて、まだ笑いもしない赤ん坊のようであり、家もなく、帰るところもないかのようだ。俗人は皆、余裕があるというのに、私だけはすべてを失っている。私の心は愚人のようであり、まごついている。俗人は明るいのに、私一人は真っ暗だ。俗人は何もかも察しているが、私一人は悶々としている。まるで暗い海のようであり、よりどころがないかのようだ。人々はみな取り柄があるが、私は頑固に引っ込んでいる。だが私は一人、他人と異なっていようとも、万物を養う母なる神秘に従って生きる。
私は花崎が「俗人」といいたいわけではないが、この文章のすべての対比関係をそのまま読んでほしい。また、どの程度有効かは疑問だが「呪いについて」(読解2末尾)も合わせて参照いただけたら幸いである。