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[読書ノート]17回目 3月9日の講義(第二時限)第一部 完

講義集成12 1982-83年度 441頁~465頁

今回のまとめ

  • 基本の構図は「ペリクレス的パレーシア」と「ソクラテス=プラトン的パレーシア」

  • 弁論術は社会を不平等なものにするための道具

  • 師と弟子との対話で作用する性愛の術エロテイツク

『ゴルギアス』のなかの2つの場面が取り上げられ、哲学的パレーシアの三つ目の特徴が素描される。

『ゴルギアス』

 ポスト=プラトン的分類において「弁論術について」という副題を与えられてきたもの。『パイドロス』(における弁論術との比較)とは異なった2つの仕方で問いが提起される。

弁論術の技術の本質は何か

 弁論術はそれが主張しているところの「善」というものに到達できない。それどころか、弁論術がなすことといえば、それ自身の目標の代わりに、その目標についての模倣や見せかけ、錯覚を提示する。その結果、弁論術は、快楽という見せかけを善という目標に置き換えてしまう。つまり、弁論術には何の価値もない(自分の目標に到達せず、それが到達する目標は何の価値もない)。

数世紀にわたる長く緩慢な進化についての問い

 先の結論に付け足しにようなかたちで言及されるのが480a部分。ソクラテスは不正について、病気→医者の比喩から、法の裁きを受けることについて話す。(フーコーは、再びピュタゴラス派の伝統からの影響にも言及している)
 フーコーがこのテクストに興味を持つのは、パレーシアの歴史に対して提起したいと思う局面のひとつだから。つまり、他者を導くために語る権利や特権としての政治的パレーシア(ペリクレス的パレーシア)という考え方から、ポスト=古代的と言ってもいいかもしれない、古代哲学以後、キリスト教のうちに見出されるパレーシアへと導かれてゆくという局面。「他者を導くための自由な言葉という特権」としてのパレーシアから「ある過ちを犯した者が、自分を救済するため、自分自身についてすべてを語らねばならないという義務」としてのパレーシアへの大きな変動(進化の場面)。

特異例ハパツクスの側面

 キリスト教的告白というものを、5世紀か6世紀先取りしているように思われる(点で特異である)。つまり、キリスト教的修練主義における恒常的な実践、あるいはその修練主義のひとつの局面となって以後見出されるものに非常に近い。かといって、私(フーコー)が知る限りキリスト教の作者による『ゴルギアス』の参照は見られない。「まぁ、それはどうでもよいことであって、私は疑問符をつけておくことにします。」
 実際は、法学と医学という二重の参照物を常にともなうキリスト教的な告白の図式、さらに十八世紀以降、その治癒的な機能によって処罰を常に正当化してきた、刑罰についての実践という図式【など現代からの視点で見ること】は時代錯誤である。
 (テクストの文脈に即して丁寧に読解すると)ソクラテスが示したのは、他人の不正を逃れることが重要なのではなく、自分自身で不正を犯さないということが重要だということ。そして、それが重要であるとした時に、弁論術は役に立つかというと……何の役にも立たないと言ったこと。重要なのは、不正な人間を実際に正しい人間にするということであって、不正な人間がただ単に正しく見えるということではない。

逆説的パラドクサル側面

 それでももし、弁論術を用いたいなら、①自分から裁判官のところへ駆けつけ「私が罪人である、お願いだから私を罰してくれ」とでもいうような状況ならば、あり得る。ただし、これ自体ギリシア人にとって意味をなさない――あり得ない情景という文脈で述べられている【弁論術が役に立たないことの傍証の文脈ということ】。つまり、弁論術の告白としての使用法はあり得ない。
 続けて、重要なことは不正を犯さないことであるということを認めた上で、本当に弁論術を用いたいのであれば、もうひとつ別の利用法がある。②あなたに敵があって、その敵に強い恨みを抱いているなら、法廷に赴いてその相手を弁護し、彼が罰せされないようにすることで、不正な人間から正しい人間へと変容するためのキッカケを与えないように努力することには使える(そうすれば敵は悪しき奉仕をつづけるだろう)。こちらも当然ながら、あり得ない情景、あり得ない使用法【の例】である。

カリクレスの介入

 ポロスの議論が立ち往生した後、カリクレスという善良でまったく模範的な若者が議論を引き継ぐ。【その内容については時間の関係で講義の中でも急いで触れられる】カリクレスとは、【悪い意味で】平等になってしまった体制のうちで、伝統的【ペリクレス的】な闘争的ゲームを作用させたいと願っているひとりの若者。(かつての伝統においては)弁論術が、平等な体制のなかで、優越や特権的な地位という、昔ながらのゲームを作用させることを可能にする道具となる。弁論術は、民主的な法によって平等な構造を押し付けようとしてきた社会を、新たに不平等なものにするための道具である。しがたって、(そのような弁論術は)法に抗して作用し、正当や不当ということに向けて方向付けられないような用法でもある。

他者によって魂に課せられる試練としての言説

 ソクラテスは、カリクレスに対して、さまざまな項目について逐一異なっているような(哲学的=魂の教導的)ゲームを提案する。

対話:質問と答えというゲーム

 『ゴルギアス』全体をつらぬく「君が私の問いに答えるのを望む」という主題の焦点は、私は、君が真実の証人となってくれることを望むという意味。(その主題おいて)対話というものが根拠づけられるのは、記憶のための道具としてや、記憶との間の弁証法的なゲームとしてではない。それは、質問と答えというゲームを通じての、魂とその性質についての永続的な試練として根拠づけられている。
 具体的には、哲学者とその弟子によって演じられる真理と試練のゲームはどのようなものであるべきか、ということについての考察――この文脈のなかパレーシアという言葉が「君の頭に浮かんでいる通りに、何も偽ることなく、利害も、弁論術的な飾りも、恥もなしに述べる」……ようするに君の思うところを正確に述べること、という意味で使われる最初の用法が見られる。

試金石の喩え

 試金石の性質とは、それ自身と、それが試練にかけるものとの間にある種の親近性のようなものがあり、それによって試練にかけられるものの性質が、その親近性によって明らかにされる、というもの。
 試金石は、「現実の領域」と「真実の領域」2つの領域で作用する。つまり、試金石は、人がそれを用いて試練にかけようと望むものの真の姿がどういうものかを知ることを可能にし、また試練にかけられるものの真の姿を示すと同時に、そのものが確かに自らそうであると主張しているものであるかどうか……それゆえ、その言説なり外見なりが、ありのままの姿にふさわしいかどうかを示すもの。ここでのゲームは闘争的な(優越性についての)ものではなく、本性の親近性と真正さの表明によって二人でなされる、魂の本当の姿=真実のについての試練のゲームである。
 そして、その試練がひとつの決定【決着】を導き出すことを可能にするものは一致ホモロギアである。ホモロギアとは、一方の側と他方の側における、言説の一致のこと。これが哲学的言説にとっての真理の基準になるのだが、それは考える人と考えられたものとの間にある内的な関係の(のちに明証性となる)ようなもののうちに求めるべきではない。性質の親近性によって互いを試練にかける二つの魂(つまり師と弟子)二人の人間同士での言説の一致によって、真理の基準が得られるのだ。しかし、それには条件――言説を保持する個人が従っていなければならない三つの基準がある。

真理の操作子オペレーター

 ①知識エピステメー、対話者たちが、自分たちの学んだ知識から知るようなことでは必ずしもなくて、実際にそれが本当であると知らばければ、自分たちが言うことを決して語らないということ。
 ②好意エウノイア、二人の対話者のそれぞれが相手に対して、友情の範疇に属するような好意の感情を持っていなければならない。それによって、自分たちにとっての【時に対立する】得や利益、また他の聞き手からの良い評判や政治的成功などが問題にならなくなる。
 ③率直さパレーシア、二人のそれぞれがパレーシアを用いること、つまり、恐れや臆病や恥といった部類のものが、本当だと思われる事柄の表明を制限しないことが必要。
 ①自分が本当だと考えていることを語る、ということを保証するエピステメー、②他者に対する好意によってのみ語るということを保証するエウノイア、③あらゆる規則、法律や慣習に関係なく、自分の考えていることをすべて語る勇気を与えるパレーシア。これらが、言説の一致が試金石の役割を果たすことができるための三つの条件。
【フーコーは、この三つの基準が、「追従」に対立するものであり、追従に関するテクストを参照しながら検討すべきであるが、時間の関係でできないことをアナウンスしている】

パレーシアによる師と弟子の結びつき

 こうした試金石やホモロギア、パレーシアのうちで頂点に達するそれらの内的な条件といった構想のうちに、われわれは、ある人のロゴスが他者の魂に働きかけ、その魂を真実へと導いてゆく関係についての定義を見ることができる。パレーシアによる師と弟子の結びつきは――そのお互いを、もはや国家の統一体ではなく、知の統一体、つまり「イデア」の統一体であり、「真実在」そのものの統一体であるような統一体へと結びつける。
 ペリクレス的な種類のパレーシアにとって必然的に弁論術のようなものがもたらされなければならなかったその理由は、他者に対して優位を占め、説得によって単一的な命令へと彼らを取り集めることを可能にするため――そういう言語の使用が弁論術である。
(以下、原文ママ)それとは逆に、師と弟子のあいだの対話において作用している哲学的パレーシアは、弁論術レトリックにではなく性愛の術エロテイツクへと導くものなのです。以上です。ありがとうございました。

私的コメント

 最後にいきなり「エロティック」とか言い出されても困る……のですが、これは、ソクラテスが好機カイロスを捉えるときにエロスで感じとった、というくだりと同じことです。古代ギリシャにおけるエロスの意味合いについて、さすがにここでは解説しきれませんので、示唆だけに留めておきます。
 今回は、今年度最終回ということで、講義の中身は、かなり時間的制約を受けたものでした。これまでにはなかったテーマという意味で、今回のハイライトである「真理の操作子」についても、例えば、知識(エピステメー)の役割はもう少し詳しく解説が欲しいところです。しかしながら、それを(解説や副読本から)補って私が解説するということも、ここではやめておきます。最後は原文をそのまま記しましたが、駆け足感含め、コレージュ・ド・フランスの一年度分の講義の終わりを堪能したいと思います。
 とりあえず、一冊分、全17回となりました。お付き合いくださった方、本当にありがとうございます。読書ノートにおいては、テーマの区切りで回を分けていますし、フーコーが取り上げるテクストの順番も時系列ではありません。したがって、順を追って読む必要はなく、「今回のまとめ」や見出しをご覧いただいて、興味を惹かれたところから目を通して頂けましたら幸いです。
 次の一冊は、ごく単純に内容の続きなので……次回は18回目と連番にします。

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