[読書ノート]18回目 2月1日の講義(第一時限〜第二時限)
講義集成13 1983-84年度 3頁~42頁
今回のまとめ
パレーシアにおける「勇気」について、詳細
類似/対立的言説として、預言・知恵・技術(教育)
現代のパレーシアとしての、革命・哲学・科学
講義の最初にフーコーは、体調を崩したため今年度の講義を一月初めから開始できなかったことを詫びる。講義の冒頭は、過去のフーコーの研究がどのようにしてパレーシア研究に遡っていったか、ということと、前年度の内容の簡単な振り返り。
特記すべき事柄として、(「主体」の構成についての研究において)フーコーは「予期していなかった」ところに起源があったと強調している。つまり、パレーシアの概念は、本質的、根本的、第一義的には、霊的先導【魂の教導】の実践のうちに現れるのではない。根本的に、政治的な概念であったこと。
改めてパレーシアとは
語源としてはすべてを語る活動のこと。そして、すべてを語る人として、パレーシアステース【=パレーシアを用いることのできる人物:「この語はもっと後になって出現するもの」と言及されつつ、今年度はこの言葉が使われる】。
パレーシアとは(そのもともとの言葉のニュアンスにおいては)、好き勝手に何でも語ることも含むが、研究のテーマにしているパレーシアを定義すると――(中心は)真理についてすべてを語ること、真理について何も隠さないこと、いかなるものによっても包み隠すことなく真理を語ること。そして(追加条件として)、①その真理によって構成されている個人的意見が、自分【語る本人】が考えていることとして語られること。②ある種のリスクを内包すること。言い換えると、その真理は暴力のリクスを冒すものであること。
パレーシア的ゲームの核心
(追加条件について)ようするに、①語られた真理とそれを語った者の考えとのあいだの根本的な絆が表明されることが必要。②対話者(真理の語り手と聞き手)【この二人の間には前提として「絆」(友愛)があるが】のあいだの絆が危うくされることが必要。(②について)すなわち、パレーシアはある種の形態の勇気を含意するということ。
(語り手の)勇気の最小の形態は、真理の使用によってその真理の弁論を可能にした友愛関係を危ないものとし、破壊するかもしれないというリスク。最大の形態は、語り手の生存が危険に晒されるリスク。他方、その真理を語られるものの方について言えば、パレーシアステースが語った真理を(いかに不愉快なものであるとしても)受け入れなければならない――受け入れることによって自らの魂の高潔さを示さなければならない。
ひと言で言うなら、パレーシアとは、語るものにおける真理の勇気、つまりすべてに逆らって自分の考える真理のすべてを語るというリスクを冒す者の勇気であると同時に、自分が耳にする不愉快な真理を真であるとして受け取る対話者の勇気でもある、ということになる。
完全に対立する弁論術
【繰り返しを割愛して要約だけ記すと】図式的には次のように言える。弁論術教師は、他の人々を拘束する(拘束的な絆、権力の絆を設定する)有能な嘘つきである。これに対し、パレーシアステースは、自分自身を危険に晒し、自分と他者との関係を危険に晒すような真理を、勇気を持って語る者である。
パレーシアステースは職業ではない(一つの方式)
ただし、パレーシアを、弁論術と釣り合いそれと対をなす明確に定義された技術のようなものであると考えてはならない。
パレーシアステースとは、それを本職とする者のことではない。そして、パレーシアのなかに技術的な側面があるとしても、やはりパレーシアは技術や職業とは別のもの。それは、一つの態度であり、徳に通じる一つの存在の仕方であり、一つの振る舞い方である。それは、諸々の手法や手段であり、そういう意味では技術とかかわるもので、都市国家および個々人にとって貴重な一つの役割でもあるが、(弁論術のような技術ではなく)「真なることを語ること」の一つの方式として特徴づけられなければならない。
「真なることを語ること」の4つの根本的な方式
「一つの」というのは、つまり「真なることを語ること」について他の方式が古代において――そして多少ともずらされ、粉飾されて、我々の社会【現代】のなかでも見出されるということ。【以下でそれら(3つ)と比べることでパレーシアの特徴を鮮明にすることが試みられる】
預言の言説
預言者はもちろん、パレーシアステースと同様、真なることを語る者。しかし、私(フーコー)が思うに、預言者の言説は、預言者が仲介者の立場であることによって特徴づけられる。預言者は定義上、自分自身の名においては語らない。彼はもう一つ別の声のために語る……という意味で一つ仲介者。もう一つは、人間たちに対し、別の場所からやって来る一つの真理を差し向ける者、つまり現実と未来とのあいだに身を置く者という意味でも仲介者の立場にある。
また真実の示し方は、必ず晦渋なやり方――謎というかたちで包み隠しつつ示す。つまり、(聞き手は)自分がよく理解できたかどうか知らねばならず、質問し、躊躇い、解釈しなければならない。
パレーシアは、これらの特徴と完全に対立する。パレーシアステースは定義上、自分の名において語る(それが率直さである)。また、パレーシアステースは未来を語らない。彼は、現に存在しているものにかけられている覆いを取り去るのであって、人間たち(聞き手)の盲目さに手を差し伸べるが、その盲目さは、何らかの過ちや放心や不品行、不注意、うぬぼれなどによってもたらされているもの。最後に、パレーシアステースは謎によっては語らない。できる限り明瞭に、直接的に語るので、解釈すべき何ものも残しておかない。
知恵の言説
古代哲学においては預言者よりも重要であったと思われる次の様式は、知恵。賢者は自分の名において語るという点で預言者に対立する。その知恵が、神によって吹き込まれたり伝統や多少とも秘教的な教育によって得られることはありうるとはいえ、それでもやはり賢者は彼自身の知恵である。したがって、パレーシアステースに近い。
しかし賢者は自らの知恵を、引きこもりのなかに、あるいは本質的な留保のなかに保つ(これが、少なくとも古代の文献の賢者の特徴である)。つまり、一つの特徴としての無口。さらに、要請を受けて、望むときのみ語る際、賢者の返答は預言者のように語る――完全に謎めいたものであったり、語りかけられる人々を、彼が実際に語ったことについて無知なままあるいは不確かなままにしておくことがありうる。そして賢者の語り方は、何が存在するかということ、つまり、世界と事物の存在を語る。そして、(特定の情勢に結びついた助言というかたちではなく)行いの一般的原則というかたちで語る。
パレーシアステースの方は、(語ることについて)留保のうちに自らを保つ者ではない。そして、謎ではなく、可能な限り明晰に語らなければならないし、(賢者の一般的形式について語りに対して)個人の状況や情勢の特異性に関して何が存在するのかを語る。つまり、対話者に対し、【一般的に】何が存在するのかを示すのではなく、対話者が現にそうであるところのものを明るみに出したり、それを対話者が認める手助けをしたりする。
技術[教育]の言説
(フーコーは図式的になることをことわりつつ、プラトンの対話編のなかの登場人物たちを取り上げる――具体的には)医師、音楽家、靴屋、大工、武闘術の教師、体育教師(たち)は技量として特徴づけられる知を所持しており、彼らがそれを所持するのは、実践のための理論的知識だけでなく訓練も含意する知としてである。彼らは、自分が知っていることを述べてそれを他の人々に伝達しなければならない者。ようするにある種の語る義務を持っている。この語らねばならないという原則は、賢者には見られず、パレーシアステースに見出されるものである。しかし、テクネーを持ち教育を行うこの人は、そうした知の伝達において明らかにいかなるリクスも冒さない。【フーコーは講義をしている自分に例えて】教えるために勇気を持つ必要などない【と断言する】。ただし、教える者は一人ないし複数の相手とのあいだに、共通の知だったり相続だったり、伝統の絆――また、個人的な感謝ないし友愛の絆を結ぶことを望み得る。
パレーシアステースは逆に、自分が語りかける相手とのあいだの関係を危険に晒す。そして真理を語ることで(共通の知……友愛といった)ポジティヴな絆を打ち立てるどころか、相手を怒らせたり、敵をつくったり、反感を買ったり、結果として彼の生命の危機まで及ぶことをする。技術者と教師の「真なることを語ること」が、(聞き手と)結合するもの、結びつけるものであるのに対し、パレーシアステースの「真なることを語ること」は、反感、争い、憎しみ、死のリスクを冒すものである。パレーシアのゲームで結果として結合と和解があり得るとしてもそれは、本質的で構造上必要な、憎しみと分裂の可能性を開いた後でしかありえない。
パレーシアを含めた4つの言説の特徴
預言、知恵、教育、パレーシア。私(フーコー)が思うに、これらは真理陳述の4つの様式であり、それらは第一に、互いに異なる登場人物を含意し、第二に、互いに異なる発現様式を必要とし、第三に、互いに異なる領域(運命、存在、テクネー、エートス)にかかわっている。
(4つは)社会的な登場人物でもなければ社会的役割でもない
重要であり、強調しておきたいのは、あくまで(4つの言説は)本質的に真理陳述の様式であること。それぞれの役割がいかにはっきりと区別されるものであろうと、また、ある時代にある社会ないしある文明においてそれら4つの機能がいわば互いに非常に異なる諸々の制度や諸々の人物によって引き受けられることがあるとしても、それでもやはりそれらが根本的には社会的な登場人物でもなければ社会的役割でもないということを見極めておかなければならない。
むしろ実際には(分かれている状態ではなく)逆に、非常にしばしば、互いに組み合わされ、言説の諸形式、諸々の制度的タイプ、諸々の社会的人物のうちで混ぜ合わされた状態で見いだされるものである。(フーコーは続けて、すでにソクラテスが、預言、知恵、教育、パレーシアの諸要素の組み合わせであることに言及する)
組み合わせの歴史
古代哲学
古代哲学史の特徴は、知恵の方式とパレーシアの方式の合流、結合であり、そのような語りとして一種の哲学的方式となろうとする傾向がある。すなわち、哲学的な「真なることを語ること」が存在ないし事物の自然本性を語るのは、パレーシアの形態におけるエートスについての「真なることを語ること」と関わり、それを関連づけ、基礎づけることができる限りにおいてである……というようなものである。そこでは、ある程度までにすぎないとはいえ、知恵とパレーシアが混同されている。
中世キリスト教
中世のキリスト教では、預言の方式とパレーシアの方式との統合が見られる。具体的には宣教および宣教師で、彼らは預言者の役割とパレーシアステースの役割を同時に果たしたといえる。
聖職者養成機関
同じ中世社会において、知恵の方式と教育の方式を接近させる聖職者養成機関という制度があった。
近代ではどうなのか
(フーコーは、近代については、よく分かっていない=これから分析されることであるとした上で、仮説とも言えない発言と強調して以下のように述べる)革命的言説のなかに、預言の方式が確かに見いだされる。すでにある程度まで運命のかたちを持つ一つの未来を告げるために語っているということ。
知恵の方式(事物の存在を語る存在論的方式)については、おそらく哲学的言説のある種の方式のなかに見いだされるだろう。
技術の方式については、教育よりもはるかに、科学や研究にかかわる制度と教育にかかわる制度とによって構成された複合体を中心として組織されている。
最後にパレーシアの方式については、私(フーコー)が思うに、それはそのものとしては消え去ってしまい、もはや、他の3つの方式のうちの一つに接ぎ木され、それを支えとしてしか見いだされることはない。
革命的言説は、それが既存の社会に対する批判というかたちをとるとき、パレーシア的言説の役割を果たす。哲学的言説は、人間の有限性に関する分析および反省として、そして知にかかわることであれ道徳にかかわることであれ人間の有限性の限界をはみ出るかもしれないすべてのことに対する批判として、パレーシアの役割を少々果たす。科学的言説は、それが先入観や既存の知や支配的制度や現在の振る舞い方に対する批判として展開されるとき、それは確かにパレーシア的役割を果たす。
今回は以上です。次回からは、テクストとしてはまたアテナイの時代に戻り、しかしエートスへと方向づけられたパレーシアにフォーカスして取り上げなおされていきます。
私的コメント
最初にいまさらですが、「図式化」という言葉について。これは、歴史的な事実はもっと複雑なんだけれど説明のために時系列や詳細などをディフォルメして、まさに図に書こうと思ったら書けるほどに単純化して整理すると、という意味です。単なる単純化だけではなくて、ざっくりだけどマッピングまでして、特に関係性について説明するということですね。したがって、今回の内容も、少し込み入った部分はあれど、おおよそ整理されたもの……を再現できていると思います。
最初の方で、以前までは曖昧だった「勇気」がどうしてパレーシアに関係するのか、ということについてはっきりしたのは良かったと思います(『真理と勇気』の最初の講義ですしね)。
後半の方も、違和感ないですよね。中世で「ユニヴエルシテ」と言われていた組み合わせ(知恵と教育)は、近代の科学的言説に該当しますが、ようするに大学を中心とした学問という制度全体のことです。そして、講義での言葉の通りならば、フーコーは哲学的言説よりも科学的言説の方がパレーシアの要素を強く見ている……これも、そりゃそうだよね、と私は思います。革命については、前の記事で触れたのでいいでしょう。
以下は、今回の内容に関わるもののフーコーの読解に関係のない話です。
私のnotoのユーザーID(であってますよね?)に「neikos」とありますが、これはエンペドクレスの言葉(概念)に由来します。エンペドクレスといえば四元素(火、水、土、空気)説ですよね。ざっくり言って、これらは世界の材料なんですが、材料だけだと様々な自然現象を説明できません。つまり、その元素をくっつけるもの「ピリア(愛)」と分離するもの「ネイコス(憎)」がある……というのを含めて彼の思想でした。あー、Wikipediaにも載っていますね。まぁ、そういうことです。
それで、なんでネイコスをIDにしているかというと、パレーシアのゲームにおいて構造上必要な「憎しみと分裂の可能性」これに該当するものだと思うからです。それは単なるパレーシアの一契機ではなく、まさに他の真理陳述のあり方との区別になるようなものでした。つまり、何かが憎い、とかではなくて、憎しみの可能性からのみ、本当のことがある……そんなかんじの験担ぎですね。まぁでも、すごく単純に言うと「破壊と創造」ってのと別にそんなに違ってないし、そういう意味で「憎と愛」もセットなんです。ただ、フーコーが前年度で「哲学とは何か」という感じで特徴づけたように、哲学(philosophy)というのは、意外にもピリア(philia)からは始まらない……ネイコスから始まるんだ、と少なくとも私は思っています。あるいは、勇気とは、憎しみと分裂という契機を経るに際してビビらないこと、と思う……というより、こっちは理屈としてはそういうことでまちがいないでしょう。
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