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メタバース(セカンドライフ)でボウリング場を作った【その1序章】
1.なぜこのノートを書こうと思ったか
2.セカンドライフ以前(リアルボウリング体験)
3.セカンドライフで出来ること
1.なぜこのノートを書こうと思ったか
現在の世界人口は82億人。82億分の1の記録を残しておこうと思いました。
自慢かもしれませんが、セカンドライフ内でリアルと同じ仕様でボウリングを作れる人は、私がいなくなったら皆無でしょう。いや、全てのゲームにおいてゲームクリエイターでリアル大会200アベレージ以上でスポーツボウリングの感覚を持っていて回転と摩擦を使ってレーンコンディションの変化を実現できる人がいるかどうか?その逆、リアルボウリングのプロレベルの人がセカンドライフに入ってきて同じものを作ろうとする確率があるかどうか?
リアルの対戦形式であるアメリカン方式で2レーンを使うということをご存知の方がどれだけいらっしゃるか?
24年11月の全国ボウリング場数は629だそうです。
どんどん減り続けています。
その中で、遊びボーリングではなく、スポーツボウリングをやっている人を推測してみます。ボーリングと言っている時点で感覚が違います。
1センターで大会に参加する常連のマイボールマイシューズの会員さんは平均30人と見ます。
大会運営などに興味のないゲームセンター的ボウリング場もかなりあると思います。
半分ぐらいの300センターで30人ぐらいボウリング愛好者がいたとして、全国で1万人弱。
同じ市内にあると掛け持ち会員さんも多いので、もっと減るかもしれません。
そして平均年齢はとても高い。私がお世話になっているセンターの大会参加者で70歳前後ではないかという感じです。
これでは、セカンドライフという入るだけでも難しいネット仮想空間内にまともなボウリング場を作っても誰も気がつかないわけです。
アインシュタインの相対性理論は、それを理解できた人がいたから世界に知られるところとなった。
理解する人が一人もいない創作物は何の役にも立たず消えていくのみという寂しさを覚えているから。
約9年の構想と7年の改良にかけた記録を残しておこうかなと思います。
まー行き詰まってほったらかしの期間がほとんどでしたがw
具体的にはこの動画のようになってます。↓
セカンドライフの仕様、調子によりどうしても完璧にできない部分もあります。減衰の激しい物理のせいでボールスピードを速めるしかありませんでした。リアルと比較部分もあります。
アニメーションは左投げや両手投げ、ローダウンなども作りたいところですが、なにしろ来客がほとんどないので気力が続いていません。
2.セカンドライフ以前(リアルボウリング体験)
私は少年期に昭和のボウリングブームを見て育ったボウリングファンです。
昭和45~47年頃に大ブームが訪れ、毎日テレビでプロが投げている姿を見ない日はありませんでした。
野球少年がプロのバッティングフォームを真似するように、私はボウリングのプロのフォームを真似て素振りばかりしておりました。
両親はJBCという団体に入って試合に出かけ、私達兄弟は留守番で、自宅で自作した長さ4m程度のミニボウリングレーンで野球のボール大のミニボール(エボナイト製)、ミニピン(木製)を使って勝負をしておりました。
レーンにはサラダオイルを塗り、滑るところと摩擦がかかるところは本物と同じ仕様にしていました。
そんなわけで、本物ボウリングはお金がかかるという理由で子どものうちはほとんどさせてもらえませんでしたが、感覚だけは身についていきました。
昭和48年頃から近所のボウリング場は次々に閉鎖、ボウリングブームは一気に去っていきました。
30歳になった頃、札幌に住んで学習塾を経営しておりました。
生徒たちが休みにボウリング大会をしようと言い出したので数人引き連れて近所のボウリング場へ久しぶりに行きました。
感覚は身についていたつもりが、子どもたちに完敗し、悔しくて初心者用ボールとシューズのセットを買って練習を始めました。
本格的に取り組んだのはそれが最初でした。
知識としてボウリングのプロテストは年齢制限があり、30歳超えると受験できないという規定だったはずなので、プロになることは諦めていました。
通い始めたセンターには国体選手やナショナルチームメンバーがいて、全国的にもレベルが高くスポーツボウリングを学ぶには最高の環境でした。
4年経った頃、センター大会の年間300ゲーム以上出場で204のアベレージを記録し2位の表彰を受けたと同時に、プロテスト受験規定が年齢制限50歳に引き上げられ、今を逃しては人生後悔すると受験を決めました。
1994年、実家が神戸だったので一時帰郷し、関西で受験しました。
プロテストは1次が関西のみで4日連続合計60ゲーム。
これにはかなり余裕を持って合格し、2次に備えました。
当時持っていたボールはウレタンの初期ハンマーブルーと昭和の貰い物マンハッタンのみで、他の受験者が宅配便で新作ボールを10個以上もセンターに送りつけるのを尻目に毎回ボールバッグをごろごろ引っ張って歩いて行きました。
2次は初日東京、2週間ぐらい置いて大阪で2日連続、また2週間ぐらい置いて東京という組み合わせで、体調の調整も大変で、最終日は緊張でホテルで眠れずそのまま朝を迎え、食欲もなく栄養ドリンクだけで投げ続けました。
15ゲーム中の8ゲーム目まで合格点を保っていたものの、9ゲーム目で130台を出し、後ろからヤジも聞こえメンタルがやられてしまいました。
最後の6ゲームでは240台を出したりしたものの、届かず、2次合計60ゲームのアベレージで1ピン不足で不合格となりました。
1次合格しているので翌年度1次は免除ということでしたが、1995年1月の阪神淡路大震災により完全に道を諦めることとなりました。
古い神戸を最後に見納める経験をさせてもらったのかなと感じています。
3.セカンドライフで出来ること
2007年にブームとなったセカンドライフに興味を持ち、お試しだけのつもりがどっぷりのめり込むことになりました。
その理由は、自由度が恐ろしく高かったからです。
アバターいじりに始まり、アバターを動かすアニメーションを自分で作れることを知り、しかも作ったら売れるのでお店を作り、初期は外人さんの往来がものすごくて全商品まるごと爆買いとかも経験しました。
セカンドライフがニュースになったのはRMT(リアルマネートレード)でSL内通貨を現実のお金に替えることができるというものでした。
私も、初期に爆発的に稼いだお金を一部換金してみましたが、日本円にたどり着くまでに何度も手数料を取られ、これは日本人には不利だなと思いました。
アニメーションを使うにはセカンドライフ内プログラムのリンデンスクリプトの知識も必要で、何も知らなかった私は猛烈な勢いで吸収していきました。
当時は、まだ外部ソフトを利用してメッシュオブジェクトを持ち込むことはできなかったので、プリムという物体を出現させてサイズや形を調整し、ツギハギで色々な物を作りました。
それを物理という状態にすると動かせるようにもなりました。
アニメーション、スクリプト、オブジェクトという3つの創作工程を組み合わせて自分が好きなものを実現できないかなと考えるようになりました。
セカンドライフに入って2年。
ある程度のことが自信を持って出来るようになったとき、まず最初に浮かんだのがボウリングでした。
続く・・・