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本物の教育とは何か:私が学生時代に学んだ理念と信念

私は教える仕事をしているが、正直に言って同業者の講師たちを好きにはなれない。その理由は、彼らの多くが「試験で点数を取るためにはどうすれば良いか」という狭い視点に終始しているからである。これが受験指導の基本だと考える人も多いだろう。しかし、私はそこに強い違和感を抱く。

かつて、私も地元の塾で学んでいた時期があった。その塾では「これを覚えればいい」「このパターンを暗記すれば良い」といった、単調で浅い内容ばかり教えられた。当然ながら、そんな指導は退屈極まりなかった。ところが、中学生の時に河合塾の体験講座を受けたことで、私の世界観は一変した。そして、この、たった1回の体験講座が私の人生を大きく変えることになった。

その講座で社会科を担当していたのが、後に私の恩師となる河合塾専任講師の山田康雄先生であった。先生の講義は、単なる受験対策を超えた壮大なスケールを持ち、私を魅了した。受験勉強という枠を超えた知的な冒険とでも言うべき内容で、一流の教養がどれほど深く、面白いものなのかを教えてくれた。この体験は、私にとってまさに目から鱗が落ちる瞬間だった。「これが一流の教育なのだ」と強く感銘を受け、河合塾への信頼が芽生えた。

それ以降、私は家から1時間以上かけて名古屋の千種駅にある河合塾の本拠地、千種校に通い始めた。当時も河合塾は日本一の予備校であり、その中心である千種校には最高峰の講師陣が集結していた。私はそこで河合塾の全盛期を築いた方々の理念や文化に深く触れることができた。

千種校には、人気のある講師だけでなく、長年にわたり予備校業界を支えてきた重鎮の先生方もいた。一部では時代遅れとされることもあったが、私はむしろその重厚な講義から多くを学ぶことができた。彼らの授業は、単なる受験対策にとどまらず、人間としての教養や知的な探究心を育むものであった。大学に合格した後も、私は河合塾でアルバイトをしながら、その精神や理念をさらに深く学んだ。

現在の本拠地中部地区重鎮講師の筆頭である玉置全人先生のこの動画からも、いかに河合塾が素晴らしい塾であるかがわかる。私も受験生時代に玉置先生の講座を受講し(常に満席のトップ講師だった)、多くの影響を受けた。

大学合格後も私は「河合塾五十年史」という昭和60年刊行の本を名古屋大学図書館の書庫に発見し、読み耽っていた。


国語科の牧野剛先生は有名だったが、数学科の続木勝年先生がこの頃から既に数学科筆頭であったことに驚いた。噂には聞いていたが、伝説の予備校講師として一人挙げるなら私は続木勝年先生を推す。黒板消しを使わず、(1)(2)(3)の解説を同じxy平面上に上から書いていくので、よほど頭が良くないと対応できないが、晩年も京大理系数学は常に満席締切であった。

そして、そんな大学生時代に河合塾の全国展開(東京進出)の立役者である丹羽健夫氏の著書に出会う。

「予備校が教育を救う」丹羽健夫

今、思えば、この新書に書いてあることが私の講師としてのポリシーを確定させたと言える。以下に河合塾の本質を見ることができる逸話を引用したい。

https://bunkyoken.kawai-juku.ac.jp/researcher/post_80.html

ーーーーー引用ーーーーー
そんなわけで予備校へ入ればがんじがらめの大学入試問題づくしと覚悟していたが、その思惑ははずれた。高校の授業よりも余裕があり、面白いのである。

英語講読は塾主の河合逸治先生の担当であった。教材はバイロンの「チャイルド・ハロルドの巡礼」であった。擬古文でしかも詩文ときている。これは難物だと身構えたが、講義の中身は格調高く、英文学の魅力にあふれた内容であった。河合逸治先生は英文学者であったのだ。バイロンは一学期中続いた。

国語は、教材は与謝蕪村であった。『春風馬堤曲』をはじめ

愁ひつつ丘に登れば花茨(いばら)

などの詩句であった。

蕪村は江戸時代の人であるが、『春風馬堤曲』などは現代詩かと思わせるような身近さを感じさせるものであり、一驚した。蕪村も一学期中続いた。

夢のような河合塾での一学期は終った。

夏休み、郷里の挙母に東京のS予備校に行っていた友人たちが帰ってきた。予備校の教科書を見せ合った。友人たちは「お前何をのんびりやってるんだ」といった。S予備校の教科書をみると大学入試問題の羅列であった。問題の最後に「XX年度YY大学出題」とあるのが眩しかった。しまったと思った。二学期は東京に下宿してS予備校にかよった。

あれから半世紀が経った。いまS予備校の教科書は頭の中からきれいに消えている。しかしバイロンや蕪村は一部暗誦できるほど心身の一部となって残っている。
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河合逸治先生とは河合塾の創業者である。
「汝自らを求めよ : 河合塾創立者河合逸治の生涯」

は私の本棚の一番目立つところに置いてある。

「汝自らを求めよ」は河合塾の塾訓であるが、まさに真の教育とはこれであるのである。

※尚、ここまで書いてきた「河合塾」は、本拠地である名古屋の千種校の理念を指す。首都圏や他の地域では方針が異なると言う話も聞くため留意されたい。河村たかしが名古屋で減税を始め、画期的な政策を実現できたのも、河合塾が長年、柔軟な思考力を名古屋の地で育んできた土台があったからかもしれない!

さて、話を現在に戻す。
一部の浅薄なYouTuberが「河合塾では点数に関係のない講義が多く、通っても全然点数が伸びなかった」と発信し、目先の得点稼ぎに特化した受験塾を推奨している。この風潮こそが、現代日本に巣食う諸悪の根源であり、私が生涯を懸けて壊滅させたい天敵である。

こうした人々は、試験対策を単なる「点数を取るためのテクニック」として捉え、それ以上の価値を見いだそうとしない。だが、教育の本質はそんな浅はかなものではない。受験勉強は、単に大学に入るための手段ではなく、人生を豊かにするための土台であり、将来の日本を支える教養を育む場である。その視点を持たない者が教育を語る資格はない。

多くの人は、若い頃に「本物」と出会う機会を持たない。それゆえ、目先の得点稼ぎやゴマすりといった浅薄な処世術が人生の成功の鍵だと信じ込んでしまう。そして、その結果として薄っぺらい人生を歩むことになる。

私は常に「本物」を追い、一流にこだわって生きてきた。それは私が河合塾の総本山という最高の環境で学び、その理念に感銘を受けたからである。そのおかげで、私は「一流である」と胸を張って言える部分がある。それは私の誇りであり、どれだけ世の中が変わろうと、死んでも曲げるつもりはない。

幸いなことに、今も私に出会って「人生が変わった」「価値観が変わった」と言ってくれる生徒が多い。いかに世の中が腐敗しようとも、私は先人から受け取った大切な教えを次世代に紡ぎ、日本の未来を照らす一助となりたいと思っている。

私が河合塾で得た経験は非常に貴重である。日本を代表する塾の本拠地で学び、修行を積んだことは、私の人生においてかけがえのない財産となった。その場で培った理念や価値観を、今も指導に活かしている。

時に私は「毒舌な人間」と思われることがある。だが、それは個人的な好悪から来るものではない。私が日本最高峰の教育現場でスタートを切ったがゆえに、二流・三流の講師たちの指導の浅さや表面的な内容を見ると、どうしても違和感や不満を抱いてしまう。しかし、それは彼らの責任ではない。彼らが一流の教育環境や指導者のもとで学ぶ機会を持たなかっただけなのである。

残念ながら、今の受験業界では単なる点数稼ぎやテクニックの指導に特化した講師が多数を占めている。それが「塾の先生」という職業の一般的なイメージを形作ってしまった。しかし、私が河合塾で学んだものは、それとは全く異なるものであった。そこでは、試験対策だけでなく、人生を支える教養、日本や世界をより良くするための知性が教えられていた。

教育とは、ただ点数を取るための手段ではない。教育は人の人生を豊かにし、社会をより良くする力を育むものでなければならない。私は、その信念を貫き続けるつもりである。どれだけ世の中が変わろうとも、本物の教育、本物の価値を見失ってはならない。私はこれからも、真に意味のある教育を提供し続けていく。それが私の使命であり、人生をかけて成し遂げたい目標である。


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