2020年 一橋大学 二次試験 日本史

かっぱの大学入試に挑戦、9本目は一橋大学の日本史。時代は近世・近代・近代の大問3題。形式は論述+短答問題。図版や史料も有意義に使われています。では、以下私なりの解答と解説。


第1問 『民間省要』

問1.解答 『民間省要』は東海道の川崎宿の名主であり、享保の改革で徳川吉宗に登用された田中丘隅が記した書物であり、地方支配の手引きについて書かれた地方書である。

解説 設問の要求は『民間省要』がどのような書物か説明すること。条件として史料2あるいは史料3に描かれていることと関連させること。『民間省要』と言えば、享保の改革で吉宗に登用された田中丘隅の著作である。史料2あるいは史料3と関連させて、とあるので何かと思えば、史料2をよく見ると「東海道五十三次之内 川崎」と書いてあることに気づく。史料2・史料3は歌川広重の『東海道五十三次』であり、史料2は川崎宿の絵だと分かれば、田中丘隅が川崎宿の宿駅の名主であったことにつなげたい。

問2.解答 大名や旗本が参勤交代などで街道を利用する際に、宿場町の町人や百姓らは、大名らが使用する人足や馬を差し出す伝馬役という負担があった。

解説 設問の要求は下線部に関わる『民間省要』の作者らに課せられた負担について説明すること。条件として史料2あるいは史料3に描かれていることと関連させること。『民間省要』の作者は問1で述べた通り、宿駅の名主である田中丘隅である。よってここでは宿場町の負担について考えればよいが、下線部aの「士は君命に随いて旅行し」とあるのは、武士が君主の命によって旅行する=参勤交代など公的な移動が想定される。また、史料2あるいは史料3と関連させて、とあるが、ここでは史料3が参考になるだろう。史料3は『東海道五十三次』の中の「藤枝」の絵であり、人馬継立が描かれている。よってここでは宿駅の町人や百姓が人馬の差配をしていた、伝馬役について説明したらよいだろう。

問3.解答 近江商人

解説 解答を導くためのヒントが「家職」「行商と出店のかたちで活動」「商人」とあり、これだけで答えを導き出すのは無理ではなかろうか。近江出身の商人のことで、中世以来活動しており、江戸時代に活躍した。

問4.解答 中世には白河上皇による熊野詣のように、院や貴族、後には武士による巡礼が行われていたが、近世には講を結んだ庶民による巡礼など、より大衆化した特質があった。

解説 設問の要求は近世の巡礼の特質を説明すること。条件として、中世の巡礼の具体例を挙げて比較すること。これまた難しい問題。まず「中世の巡礼」の具体例であるが、これは院政期の熊野詣や高野詣がまずは想定される。こうした具体例と比べて、近世の巡礼の特質を説明せよ、とあるので、解答例では中世が院や貴族、武士によって行われた⇔近世は庶民による巡礼が盛んであった、という形でまとめた。ただ、中世に庶民による巡礼がなされなかったかと言われるとそんなことはないであろうし、別解として例えば近世には娯楽的要素があった、としても中世に娯楽的要素が無かったかというと疑問も残るので、個人的にはあまり腑に落ちない問題である。ここらへん自分自身不勉強なのでもう少しよく学んでみたい。

問5.解答 化政文化の頃には庶民による旅が盛んになっていった。その背景としては、商人の経済活動が盛んになり庶民の生活水準が向上したこと、各地に名所が生まれ『東海道五十三次』などの風景画が流通し、旅への憧れが高まったことが挙げられる。

解説 設問の要求は「慰み遊山の為に旅行」することが盛んになった時期がいつか指摘すること、その背景について説明すること。条件として、史料2、史料3と関連させること。『民間省要』が書かれた時代とは問1でも述べたが徳川吉宗の享保の改革のころで、18世紀前半である。このころに稀だった物見遊山な旅行が盛んになった時期だが、条件である史料2、史料3を関連させるというところからも、化政文化の頃に庶民の旅が盛んになっていたことを想定したい。背景としては交通網の発達・商品経済の活性化による庶民の生活水準の向上などが考えられる。ただ、史料2・史料3との関連となると、『東海道五十三次』の性格を踏まえ、各地に名所ができて風景画が多数描かれたことに触れる必要があるだろう。


第2問 『みみずのたはごと』

問1.解答 徳富蘆花

解説 この問題文の史料である『みみずのたはごと』の作者を問う問題だが、『国民新聞』に連載、『不如帰』の作者というところから答えを導きたい。

問2.解答 一世一元の制。天皇一代につき一つの年号を用いるとした制度。

解説 令和改元ということで非常に時事的な問題。史料では大正改元の話が述べられており、改元に関わる「明治元年ノ定制」とされた「制度」とくれば、一世一元の制である。

問3.解答 明治天皇への践祚が行われたときはまだ江戸幕府が存在しており、天皇は将軍に大政を委任しているという立場であったが、その後大政奉還や王政復古の大号令がなされ、即位式の時には天皇は名実ともに国家のトップという位置づけになっていた。

解説 設問の要求は明治天皇への践祚と「即位式」の間に、天皇の政治的な位置づけがどう変化したか説明すること。条件として当時の政治的な動向を踏まえること。設問文で、わざわざ明治天皇への践祚と即位の間に「1年以上」の隔たりがあり、史料文で「明治元年」が「即位式」を挙げた年と書かれているので、明治天皇への践祚がなされたのは幕末、江戸時代ということになる。その間の天皇の政治的位置づけの変化なので、端的に言えば政治的実権の無い立場から国家の中心として位置づけられる立場へと変わったということであろう。当時の政治的な動向を踏まえれば、孝明天皇の崩御➝明治天皇への践祚➝大政奉還➝王政復古➝明治天皇の即位という流れを盛り込む必要がある。

問4.解答 大日本帝国が欽定憲法として制定され、国民は天皇の臣民と位置付けられた。憲法発布の翌年には教育に関する勅語が出され、学校教育において忠君愛国の思想が強調された。日清戦争で日本が勝利すると、天皇を中心とする国家主義的風潮が強まっていった。日露戦争後には国家主義的な考えに対する疑問も出てきたが、政府は戊申詔書を出すことで皇室への尊重を国民に求めていった。

解説 設問の要求は天皇の存在が人びとの意識の中に浸透していったことに関して、明治なかば以降の出来事が及ぼした影響について説明すること。条件として、「教育に関する勅語」「大日本帝国憲法」「日清戦争」「戊申詔書」の語句をすべて用いること。テーマとしては面白いなぁ。天皇論なんてのも割とホットな話題かな。出来事と影響を述べていけば良いので、①大日本帝国憲法の制定➝天皇は神聖不可侵の存在、国民は天皇の臣民という意識の浸透 ②教育に関する勅語の発布➝学校における忠君愛国思想の教育 ③日清戦争の勝利➝天皇中心の国家意識の高まり=国家主義の風潮 ④戊申詔書の発布➝個人主義を引き締め皇室への尊重を高める、といったことをまとめたら良いだろう。


第3問 議会制度の歴史

問1.解答 貴族院は世襲の皇族や華族からなる議員や、多額納税者などの勅任議員から構成されていたが、衆議院は国民の選挙によって選ばれた議員によって構成された。

解説 設問の要求は大日本帝国憲法下での貴族院と衆議院の違いについて説明すること。貴族院の構成議員についてきちんと説明できるかがカギだろう。皇族・世襲または互選の華族・天皇が任命する勅任議員(勅選議員と各府県1名の多額納税者)の3種類である。

問2.解答 議会は天皇の協賛機関という位置づけであり、予算や法律を成立させる権限が与えられていた。

解説 大日本帝国憲法下での議会の権限について説明する問題。制限はあったが、明治憲法下においても議会の承認が無ければ予算や法律は成立しなかった。

問3.解答 国家総動員法により、議会の立法の権限が制限され、政府は議会の承認なしに戦争遂行に必要な物資や労働力を動員できるようになった。

解説 1938年4月に公布された、戦時統制を強化するための法律の名前をあげ、議会の権限が実質的にどう変わったかを説明する問題。まず1938年に公布された戦時統制を強化する法と言えば国家総動員法であろう。この法では政府が議会の承認なしに戦時動員をかけられるようになったのであり、それまで議会の承認が無ければ政府が必要とした法も運用できなかったのが、その承認が必要なくなったということであり、議会の立法権の制限とみることが出来るであろう。

問4.解答 近衛文麿がナチスのような一大政党を目指して新体制運動を起こした結果成立した組織であり、政府の指示を知事・部落会や町内会・隣組を通じて国民にまで行き渡らせる上意下達機関となり、国民の戦時動員に役割を果たした。

解説 設問の要求は大政翼賛会の実際に果たした役割について具体的に説明すること。条件として、成立の経緯について触れること。成立の経緯としては、近衛文麿による新体制運動に触れる必要がある。日中戦争勃発後、ヨーロッパで第二次世界大戦が進行する中でドイツのナチスやイタリアのファシスト党のような一大指導政党の樹立を目指す新体制運動が起こった。この結果成立したのが大政翼賛会であるが、結局政党組織とはならず、総理大臣が総裁、道府県の知事が支部長、部落会・町内会・隣組が下部組織となる上意下達機関であった。しかし戦争が進むにつれ、大日本婦人会など様々な組織が参加に入り、国民の戦争参加を促すような役割を果たしていった。

問5.解答 政府の援助を受けた推薦候補が多数を獲得した、翼賛選挙であった。

解説 戦時中の1942年に行われた総選挙について、従来の選挙との違いに留意しながら説明する問題。1942年の選挙と言えば翼賛選挙である。従来の総選挙との違いとなると、政府の援助による推薦候補というものが存在していたことであり、選挙の結果もこの推薦候補が多数当選し、翼賛政治体制ができあがっていった。


以上で終わり。浮世絵を使った史料問題なんかは面白かったですが、近江商人みたいな用語集から出しましたみたいな問題はうーん、といった感じです。一橋大もあちこちで解説されているので勉強になります。

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