党派性の奴隷
ある人物や集団・組織のスタンス、考え方が自分と完全に一致することがそうそうあるだろうか(いや、まずない)。
自分がある人物や集団・組織を全肯定したり、無理筋な擁護をしたり、反対する者にとにかく難癖を付けたりしていたら、自分が「党派性の奴隷」になっているのではないかと疑った方がよいと思う(逆も然り)。
同じ内容の言動に対し、党派にかかわらず同じ態度を取ることができているか。内容についての判断で、党派を考慮せずにいられるか。基本的なスタンスで対立する相手の言動にも一理あるものには一理あると認めることができているか。基本的なスタンスが一致する相手の言動でもおかしいものはおかしいと判断できているか——。
「誰が言うか」によって変わってくるのは、事実関係の信憑性、発言の説得力、自己言及を含む命題の真偽(例:「私は男性である」)など。
意見や論理自体の正しさについては誰が言うかによって変わるものではない。
誰が言おうと正しい意見は正しいし、間違った意見は間違っている。優秀な人の意見が常に正しいわけではないし、優秀でない人の意見が常に間違っているわけでもない。
自分は、言動の主体に対してではなく内容に対して一貫していたい。「どちらサイドか」といった点で一貫するつもりがそもそもない。
「普段は『〇〇』を批判しておきながら……」などと矛盾を指摘されるのであれば、『〇〇』には主体ではなく内容が入るのが適切と考える。
主体に対しては是々非々(ある意味、一貫して是々非々、是々非々という一貫性と言えるかもしれない)。内容に対して真に一貫するために、主体に対しては必ずしも一貫しないこととなる。
主体に対して一貫している場合、それは党派性の奴隷なのでは?という。
そしてこれはおそらく「自分自身」についても当てはまる。「自分は絶対に正しい」というのも党派性の奴隷の一種と言えるのではないか。
正しいと思っているから自分がその意見を持っている……というのは当然あるが、無謬性神話に陥らないよう気を付けたいところ。
「現時点で自分の考えが一番正しいと思っているが、それよりも正しい考えが今後現れる可能性は否定しない、現れたら自分の考えに取り入れる」という感じだろうか。
そして、過去の言動との一貫性も大切だが、自分はそれ以上に(訂正や宗旨替えも含め)最終的な言動に筋が通っているかという点で一貫していたい。
過去の考えが誤っていたのなら、現在の言動と一貫していなくても仕方がない。誤った考えに固執する方がよっぽど愚かだと思う。
ただし、訂正や宗旨替えをするのなら自らの誤りなどを認めるのが前提となる。そこは良心として守っておきたい。
党派性の奴隷について、「主体→内容」だけでなく「内容→内容」というパターンもあると自分は考えている。
一例としては、何でもない可能性も大いにある事象に対し都合よく差別を見出し断ずる、いわゆる繊細チンピラ仕草が考えられる。
具体的には、女性が家事をしているCMについて、アンコンシャス・バイアスによる女性差別であると断定するような場合など。
「女性なんだから家事をしないと」などと明言されたのでもない限り、そのCMだけではそこまでは確定しない。可能性として推測するにとどまらず、断定までしてしまうのはいかがなものか。
(性自認や男女以外の性別みたいなのはひとまず置いておくとして)世の中には男性と女性の2種類しかおらず、数も半々に近い。
家事関係商品のCMが実際に家事を担う層を対象にしているであろうことを考慮しなくとも、無作為に選んだら約1/2の確率で女性が家事をすることになる。
過去記事でも似たようなことを書いているが、同じ類型のCMでデータを取って全体的な性別の偏りを指摘するのならまだしも、「結果として女性が家事をしていたこと」を単発で女性差別として断定して批判するのはおかしいだろう。事象としてはコインを1回投げて表が出ただけなのだから。
(そして、その批判は実質的に「家事は男性が担当すべし」と言っているようなものであり、まさにそれこそが性差別だと思う)
また、類似の例として、単発の言動をもって相手をカテゴライズするような場合(これは「内容→主体」に近いかもしれない)や、未確定の情報を都合よく断定して自説の補強に使うような場合(意図的な繊細チンピラはこちらに該当するかも)が考えられる。
具体的には、少し女性寄りの発言をしたらフェミニスト認定したり、「(〇〇なのは)〜だからだ」などと可能性のひとつでしかない物事の因果関係や他人の動機・内心を断定するような場合など。
「〇〇を擁護/批判するのはあの属性に違いない」と決め付けたり、事実と推論を分けずに自説以外の可能性を考慮しなかったりするのは、いかにも党派性の奴隷のようにみえる。
まあある種のレトリックとしてわざとそのような繋げ方をしているのかもしれないが、それはそれで知的に不誠実だとは思う。
他にも、とにかく「世間一般でいう正しさ」の逆を行こうとするのもまた党派性の奴隷感がある。「正しさ」に盲従するのを忌み嫌うあまり「正しくなさ」や「悪さ」に盲従してしまっているというか。
「『世間一般でいう正しさ』に囚われない」というのは、世間一般でいう正しさに判断を左右されないことを言うはず。「世間一般で正しいとされていることは間違っており、悪いとされていることこそ正しい」まで行ってしまうと、それはもう一周回って世間一般でいう正しさに囚われてしまっているだろう。
以上のように、「党派性の奴隷」には様々なパターンがある。また、保守・リベラル、男女、世代、強者・弱者、ポリコレ・反ポリコレ……党派にも色々あり、意識しないと簡単に引っかかってしまうと思う。
自分にも基本的なスタンスが合う対象、合わない対象というのはある。あるけれども、合う対象——「自分自身」を含め——の至らぬ点や合わない対象の正論から目を背けるような、党派性の奴隷にならないよう気を付けたい。そして、通すところをしっかり通したい。幸い、反面教師候補には事欠かない
※一事をもって「党派性の奴隷」と断定するのもまた適切ではないので、他者に当てはめる際はその点にも注意が必要か(念のため)。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?