論説 JCに対する世の批判に応ふ   森 下 泰 1952年度会報

論説 JCに対する世の批判に応ふ
                  森 下 泰
                     1952年度会報


 "出る釘は打たれる"と言ふ訳か、三年目を迎へるにつけ、そろそろJCに対する様々の批評が行われ始めた。出る釘は何でも之を打つ、と言ふのは日本の社会の伝統的習慣であるから、一々そんな批評を気にする必要は素よりない。然し、その中には傾聴すべき種類のものもありはしまいか、或いは、批評そのものはともかくとして、之を吾々自身のJCの意義に対する反省と認識をさらに深める契機としては何うか。
 そう言ふ意味から、度々私の耳にする二つの批判を取り上げてみる。第一の方は大した問題ではない。私の特に論じたいのは、第二の批判と、之を契機とする吾々のJCに対する再認識の主張である。

(一)「坊ちゃんクラブである」という批評
 この批判の内容については、読んで字の通り、説明の要はない。之に対する応答は概要左の如くである。
一、この見方はJCに対する深い関心と研究の結果行われるものではない。こ う言ふ見方をする人々はほんの思いつきのひやかしに斯く言ふだけである。
二、他方、JCに於いても(単に大阪JCのみならず)このやうに言はれて当 然な内容が存在した。吾々はそれを充分に知りながら、創立時代のやむを得 ないイーブルとして認めて来たことである。
三、深い関心に基づかない座興的批判に我々は毫も傾聴する必要はない。
四、特に大阪JCは、その発足当初に於いて、斯様な批判を蒙ることなき理想 的JCの創設に非常な努力を傾倒した。その試みは一応失敗に終わったけれ ど、吾々のその意図は依然として堅持されている。
五、要は今後に於けるJCの理想的成長、乃至、それを築くべき吾々の努力の 如何の問題に帰する。

(二)「前資本主義的感覚がJCを支配している」と言ふ批評
 この批評の内容に就いては若干の説明が必要であらう。論者の耳にする処で、且つ、注目すべきであると考える要素は次の通りである。
一、現在のJCを支配している観念は極めて「中小企業的」である。その意味 は、具体的にJCが中小企業者の集まりである、と言うことではなくして、 (その見方は前項に於いて答解の通り、問題とする余地はない)「物の見方 考え方が中小企業的」である、と言うことである。
二、中小企業的と言う言葉の内容は、近代的進歩的でない、進みて言うならば 「前資本主義的」である、と言うことである。
三、前資本主義的であると言うことは、例えば、所謂左翼に対する考え方に於 いて、歴史的事実を認識することなく極めて保守的な態度をとる、と言うよ うな意味である。そしてそのような考え方が、自由党或いはシニア・チェン バーに於いてはにつかわしく妥当しようとも、青年の集いである青年会議所 に果たしてふさわしいかどうか、と言う批判に他ならない。
四、今少し説明を加えよう。労働組合に対する考え方を一例とすると、この場 合、「積極的労働運動は好ましいものではない、組合は須からく温和柔順の 御用組合であるべきだ」という一聯の観念が「前資本主義的」である、と規 定するのである。
五、近代資本主義の合理観念に於いては、資本家は原料地代労賃を可及的廉価 に購入し、製品を可及的高価に売ることによって利潤を追求する。原料地代 労賃の供給者は、又当然に、それぞれの提供物を可及的高価に売ろうとする。 労賃の場合に於いては、労働者はその提供物である労働を出来るだけ高価に 売ろうとし、その選び得る唯一の方法として、団結し組合を作って資本家に 対抗する。
 この論理を前提するならば、「労働組合乃至労働組合運動は、資本主義その ものに内在する当然、且つ不可欠の要素である」と言うに他ならない。そし て従って、労働組合の強化を拒否する考え方は合理的近代資本主義と言うこ とになる。
× × × × ×
 如斯き批評は、その評価自体が現在のJCに現象的に妥当するか否かは別問題として、JCそのものの成り立ち、存在意義、及び将来の方向に就いて、考ふべき若干の示唆を与えるものではあるまいか。論者の指摘したい点は左(以下)の通りである。
一、此の種の批判は決して思いつきでなされるものではない。一応JCに関心 を持ち、その現状を知悉し、且つ青年の運動としてのその意義を高く評価し ながら、好意的期待の下に行われるもの、と見なすべきである。
二、この見方が現在現実のJCに妥当するか否か、は今早急にとりあぐべき問 題でない。先ず考ふべきことは、吾々のJCがこのような批判の対象に値す る、思想的基盤を持っているか否か、である。個々の集会や時宜要の背後に 確固たるJCの観念が、確立されているか否かである。現象的な問題は現象 的に解決すれば、それで事は足る。現象的な個々の事柄をとやかく論議する 前に、吾々は基本的な観念の確立を先ず考ふべきではあるまいか。
三、私は次のように考える。JC運動が世界に於いて特に盛んになったのは第 二次世界大戦後であった。そのことは第二次世界大戦の歴史的事実がJC運 動と言うものを要求したからに他ならない。その要素は特に "二つの点" に 集中せられる。その一は「青年の国際的友情」、その二は「進歩的民主主義」。  
四、第一の「青年の国際的友情」については贅言の要はない。かつての日自ら 戦の場に銃を執った青年達、そして又、当然に次の世代を背負うべき全世界 の青年達、が相ひ互ひに理解し合い手を握ることが、如何に今日必要である かは言ふ迄もない処であろう。切実な、真当に腹底からの平和への欲望は、 戦の場にはかなく散った友人達のたましひの為にする吾々の悲願である。
五、第二の「進歩的民主主義」と言ふ言葉は必ずしも妥当ではないが、その意 味は次の通りである。
特に第二次世界大戦後、ソビエト社会主義聯邦の発展、中国共産党革命の 成功、英国労働党の社会主義政策、日本に於ける民主主義運動の展開等々の、 所謂右翼に対する左翼の台頭が顕著な歴史的事実として吾々の眼前にある。 つい、最近迄日本を支配していた中世的な封建主義は、驚くべく未開な野 蛮社会の現象として論議の外に於いて、右の歴史的事実は、近代市民社会、 且つ、之を支えている「近代資本主義」に就いて、吾々の注意を喚起する。
資本主義経済、及び、その上に築かれて来た所謂市民社会は、そのままの姿 で永続し得るのか、すべきであるのか、改変を余儀なくされていはしまいか。 この "反省そのもの" を指して「進歩的民主主義」と概念したのであった。
 六、JCは新しい時代の要求に応えて新しく生まれ出たもの、特に青年のもの、 として如何なる意味に於いても進歩的であっていい。然し、何が進歩的であ るか、と言うことは素より、スターリン的意味の民主主義を信奉するもので はないし、ソビエト社会を直に理想であると言ふのでもない。
 此処に言ふ "進歩的" とは、偏見に提はれることなく、歴史的事実を現代 的感覚によって直裁にながめその上に立って物を考へ処す、と言ふ、廣い公 明な心的態度を指す。二つの世界は対立すると前提し、一方が絶対的に正し く他方は絶対的に非である、と直に決断し、それ以外には考へようともしな い態度は、此処に言ふ進歩的の概念と背馳する。或いは又、一国の議会の議 長が次郎長時代の森の石松的方法によって取り引きされるやうな政治は、所 謂進歩的の形容を附されるものでない。青年の運動であるJCは、進歩的な らざる現実の社会の中から進歩的なものへの押さえ難い大衆の輿望を担って 登場したのではないだろうか。そこにこそ、JCの歴史的意義の他の一つが ありはしまいか。進歩的と言ふ言葉の内容に、ある特定の概念を用意して斯 く言ふのではない。心的態度としての進歩性、先ずそこから出発することが JCの真の社会的存在の意義を与ふる第一の所以である、と私は考える。
                            (終)


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