ジョン・ミルトン『失楽園』
聖書の、宇宙から地球の自然や人類までも創造した神様の創世記やアダムとイブが禁断の果実に手を出し楽園を追放されること、サタンが堕天使として地獄に落とされるお話をジョン・ミルトンさんの素敵な詩で綴った叙事詩です。
読んでみると分かりますが、めっちゃアニメっぽいんです笑
冒頭は神様に負けたサタンが悔しがりながらもう一度戦いを宣言する所から始まるんですけど、いちいちカッコイイんです!
「『一敗地に塗れたからといって,どうしたというのだ? 全てが失われたわけではない』かつては神にめでられた大天使,今は反逆のとが故に暗黒の淵におとされたサタンは,麾下の堕天使の軍勢にむかってこう叱咤激励する。神への復讐はいかにして果たされるべきか───。」
キリスト教の聖書がアニメ・漫画のモデルになることはよくあることなのでアニメっぽいのは当然なのですが、それにしてもジョン・ミルトンさんの引出しが多彩で魅力的で、とても惹き込まれあっという間に読み終わっちゃいました。
うまく言葉で表現できませんが、読み終わったあとには「さて、頑張るかぁ」って気持ちになりました笑
どんなに苦しくても絶対に諦めないサタン、互いに純粋な愛の言葉を惜しみなく掛け合うアダムとイブ、毅然とした態度の中からでも溢れ出る優しさを持つ創造主や天使。
そんな彼等を見てしまったら悩んでなんかいられませんよね、とにかく自分も、自分の人生を精一杯!一生懸命!全力を出し切りたい!と、しかしそれでいて愛が、地球に生まれ触れられる動植物や届かずとも美しい月や星々への、全ては伝えられないけど通じ合える人との出会いや辛くても必ず学びに繋がるような出来事への感謝が、溢れてくるような作品です。
それと、話は変わりますが、言霊学の観点からすごく参考になりました。
古事記には形而上学の存在論や知識論、言語論、倫理学が、要するに人間の精神構造が記されています。また、考古学では分かり得ない(経験・物的証拠に基づく学問・弁証法的帰納法には競争し発展させる性質があるから)演繹的に知れる歴史が記されています。
それによると少なくとも約1万6500年前(2024/4/16現時点での最古の縄文土器)に人間の精神構造を熟知した人(霊知り・聖)が、その形而上学を比喩表現として物語にしたり、数の概念にしたりして世界中に散らばったそうです。
神道は勿論、仏教や五行思想、易経、ユダヤ教など様々な形となり伝えられました。キリスト教もその内の1つで、新約聖書が有名なので手元にありますが馴染みの無い人名ばかりで読むのに一苦労なんです。家から近い協会に足を運んだりもしました。どの協会へ行っても、牧師さんも通ってる方たちも皆さんとても優しく居心地の良い空間、まるで第二の実家の様な安心感があり大好きです。しかし聖書を形而上学として学んでいる牧師さんには出会えませんでした。
そんな中出会ったジョン・ミルトンさんの『失楽園』は明快かつ詳細に形而上学としての聖書を伝えてくれました。
例えば、禁断の果実と言われる知恵の実。これは、知識を得ると死ぬという代物ですが言霊学を知れば面白い比喩表現であることが分かります。
人間は必ず、初めに欲望、次に経験、表現、道徳、悟りという順番で成長すること、また、それぞれに良い面・悪い面があることが説かれています。仏教で言うところの地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間-衆生・声聞・縁覚・菩薩・仏陀です。欲に正直な人を「人間」味があると言ったり、あの時言っただの言ってないだのの口喧嘩を「修羅」場といい、振り上げた拳の下ろしどころが無い時に「畜生」といい、自分の事しか頭にない人を「餓鬼」といい、生命活動を終わらせてしまう争いや死人が続出する戦争のことを「地獄」と言いますよね。
アダムとイブは知恵の実を口にした後、今までの愛に充ちた優しい会話が嘘のように「今朝〜お前がもしわたしの言葉に耳を傾け〜一緒にいてくれたら」「なぜ、絶対に行くな、と命令しなかったのです?」「女というものは、制約されることに我慢できない。そして自由気儘に振舞い、もしその結果禍が生じると、忽ち、自分を大目に見てくれた男の気の弱さを非難する」とまさに修羅場になります。
知恵を得たせいで、経験に基づいて学習する賢さが裏目に出て、いつまでも過去に執着して相手を言い負かす事を辞められなくなったんですね。このシーン思い出すと悲しい...😢
こんな感じで人間の精神が比喩表現で記されていることが、ジョン・ミルトンさんの丁寧な詩ですんなり理解できました。