モヤモヤした気持ちの切り抜け方
「溶けてなくなりたい」と感じていた
4月になって、朝起きたときに布団から出れなくなった。と、言っても以前の時間よりも20分遅れくらいでのそのそと動き出すことができるので、何かに支障があるわけではない。
さらに4月の後半からは、「溶けてなくなりたい」という言葉が頭をよぎるようになった。「死にたい」とか「消えてなくなりたい」とかじゃなくて、「どろどろと溶けるようになくなってしまいたい」という気持ちだ。
今回は、その気持ちがどこから湧き上がってきたのかと、それをどう切り抜けたかを記録するためにnoteを書こうと思う。
新学期が始まった、けれど
新学期。授業が始まって2週間。新入生が入ってきて2週間。
うちの学校は学年ごとに色が分かれたジャージを着用する。なので、こないだまで3年生が着ていた色のジャージを、入学してきた1年生が着用するという流れになる。1年生の姿を見ると、1ヶ月前まで関わっていた3年生が小さくなったかのような錯覚を起こす。彼らの3年間は一体どんな3年間になるのだろう。卒業のときにはどのような表情をするのだろう。卒業式をこないだ体験したからか、つい、そんなことを考える。
授業の様子を見ていると、いろんな子がいるなあと思うけれど、その中でも勉強についていくのがいっぱいいっぱいな子に目がいってしまう。まだ授業は始まったばかりで、本格的な内容には入っていない。だけど、すでにキツいなと見てて感じる子が何人かいる。科目やその日の内容によっては、半数近くいるのではないかと思うときもある。そんな子達に手を伸ばしたいと思うけれど、授業の邪魔をしないようにすることを意識すると出来ることが限られてしまったり、そもそも自分1人じゃカバーしきれなかったりして、満足にサポートできなかったなあとモヤモヤした気持ちを抱えて授業時間が終わることも少なくない。
授業を担当した先生に「今日、みんなどこまで理解出来てたと思いますか?」と聞いてみると、「ほとんど理解出来てなかったんじゃないですか。まあそんなもんでしょ」という返事が返ってきた。
違う日に、別の先生に「わからなくて困ってる子がたくさんいたんですけど、わたし一人じゃ教えきれないから、生徒同士で教えあえるようなグループ活動にしたらどうですか?」と提案したら、「人間関係が微妙だから組み合わせ考えるのがなぁ」と乗り気ではない様子だった。
授業は持たずに支援を担当するベテランの先生に「困ってる生徒をどうサポートすればいいかって難しいですね」と悩んでることを口にしたら、「ほっとけばいいよ」と言われてしまった。
そういう答えが返ってくるたびに、わたしの心は、少しずつ死ぬ感じがした。
「溶けてなくなりたい」の正体
生徒の中に一人、とても字が汚い男の子がいる。その子は勉強が苦手だという引き継ぎが小学校からあった子だった。
その子の様子を2週間見ていて気づいたことがある。確かに字は汚いけれど、一生懸命ノートを取る子だということ。目標にも「にがてな漢字をがんばる」と書いていたこと。理科の時間の発表場面で本当は手をあげたいけれど「間違ってたらどうしよう」と一歩が踏み出せずにもじもじしてたということ。数学の時間に基礎的な問題が全然わからず困ってたので「今度一緒に解いてみよう」と声をかけたらはっきりした声で「うん!」と返事をしてくれたこと。
これだけのエピソードを振り返っても、決して意欲がない子だとはわたしには思えない。だけど周りの先生は、学力テストの点数や、ワークシートの文字の汚さに注目して「できない子」のレッテルを貼ろうとしている。ほんとうにそうなの?それでいいの?と、グルグルと考えてしまう。
去年関わった3年生の中に、「どうせわたしは勉強できない。先生方もそう思ってるし」と口にした生徒がいた。その子を見て、1年生のときから、いや、小学生のときから、そういうレッテルを貼られてきたのだろうと思った。大人の眼差しが与える影響の強さを、責任を、感じた。子供をどんな子にするかは、わたしたち大人がどんな眼差しでその子を見ていくかだ。それに気づいている大人たちはどのくらいいるのだろう。
この男の子の他にも、「先生、まったくわからない。これ宿題?どうしよう」と、プリントが解けずに泣きそうな顔をしている生徒がいた。だけど、わたしは何もしてあげられなくて、無力感に襲われた。そういう出来事があるたびに、「何も出来ないなあ」「それなら自分なんている意味ないなあ」という気持ちが膨らんでいった。この、いくつもの無力感が「溶けてなくなりたいなあ」という感情へと変わっていったのだと思う。
ぼやっとモヤモヤした黒い気持ちを抱えながら、学校はGW休みに入った。
わかってくれる人の存在
GW初日、学校の先生方とわたしの家でひっそりと飲み会をした。だいぶお酒もまわった頃、酔った勢いでこの2週間抱えていたモヤモヤを口にした。
そのときにいた先生は、もともとすごく信頼していた人だった。いや、この一年をかけて、信頼関係を作ってきた、唯一の同僚だった。ここまでちゃんと自分が抱えるモヤモヤを話したのは初めてだったけど、この人になら伝わるんじゃないかという期待を少ししていた。
思った通り、その先生は、わたしが話すことに「そうですよね」と頷いてくれた。「できない人の気持ちを考えるって大事なことだ」「そういう子がいるってことを先生はちゃんと知ったほうがいい」と、言ってくれた。
それだけで、あんなにモヤモヤしていた気持ちが晴れて、なんだか心が軽く、強く、なったような気がした。わかってくれる人がいる、同じ気持ちで子供に関わろうとしてくれている人がいるってことが、こんなにも気持ちを前向きにしてくれると気づけた。
心が死ぬような感覚になることは今に始まったことじゃなく、この仕事についてからずっと、孤独を感じる出来事はたくさんあったし、きっとこれからも心は何度も死んでいく。自分には何もできないって思うこともある。全員とわかりあうことなんて、すっごくすっごく難しいことだから。
でも、今は、「この人なら」と思える人がいる。去年は誰もわかりあえる人なんていないと思っていた。だから余計に孤独だった。今はそうじゃない。一年経って出来た関係性にとても救われている。一緒に考えてくれる人が一人でもいてくれれば、その人と話すことができれば、心は復活するし、きっとその復活した心は死ぬ前の心より強い気がするんだ。
そういう気持ちにしてもらえて、嬉しいし、ありがたい。
またGW明けから頑張ろうと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?