山内マリコ/マリリン・トールド・ミー①誰にも気付いてもらえない女の子
はじめに
物凄い読書体験だった。
本書は、今まで「セックス・シンボル」として当たり前のように消費されてきたマリリン・モンローを、彼女の生前の勇気ある行動から「フェミニスト・アイコン」として見直そうという主題を持った小説だ。
ハリウッドの男性社会に、マリリン・モンローがどれだけ理不尽な扱いを受け、それにどう抗い続けてきたかを、コロナ時代の女子大生、瀬戸杏奈の視点から辿っていく。
ただ、マリリンの不幸やそれに伴う勇気ある行動や、ジェンダーの問題など、それ自体は素直に読んだら理解できる。
だけど、個人的に今作の最大の魅力は、主人公の瀬戸杏奈と、彼女を巡る人間関係や諸問題がかなりリアルに書かれていることなのだ。
さて、瀬戸杏奈とはどんな女の子か。
誰にも見つからず、誰にも気づいてもらえない、背伸びするどころか、自分を分部相応に受け入れすぎて、景色のひとつになっている女の子。
セカンド・ストリートで買ったお気に入りのMA-1は保護色だ。
誰かに見つけてもらいたくてたまらないのに、カーキ色に身を包んで隠れることしかできない女の子。
今回は、3回に分けて、彼女の正体を掴んでみようかと思う。
被害者意識に感情を支配されると…
本書を読了して感じたことは、主人公・瀬戸杏奈のあまりの自尊心の低さ。
リア充の知り合いの幸福に憤り、コロナ禍、日本政府、貧困、男性、常に何かの被害者になっていないと正気を保てないのだ。
被害者意識に支配されると、人からの親切を素直に受け入れることができなくなってしまう。
73p「ゼミランチ」の場面を見ていきたい。
瀬戸杏奈はコンビニの梅おかかおにぎり一個で乗り切ろうとすると、不摂生を心配した社会人枠の主婦学生、志波田さんから肉だんごをもらうところで
これ、わかりますか?
志波田さんの親切に、感謝を述べずに「大丈夫です」と断る無神経ぶり。
いきなり降って湧いた親切を、瞬時に迷惑なものに変換してしまう。
自尊心がある人は、肉団子も、親切も一心に受け入れられるのに、瀬戸杏奈にはそれを受け入れるスペースがないのだ。
人の作ったものが苦手でも、その旨を伝えて遠慮しながら「お気持ちだけ頂きます」と感謝を伝えることは、いくらでもできるのに。
感謝の気持ちが宿らないのは、自分には親切を受け入れる価値がないと感じているからじゃないだろうか。
うーん、苦しい。
正直、読んでいて溺れてしまう。
自分をかなり小さく見積もらないと、瀬戸杏奈に共感できない。でも、瀬戸杏奈に共感できる女の子、いっぱいいるんだろうなって。
パパ活ができる女の子には、まだ、売れるものがあったりする。プライドもまだ、微かに残ってる。
だけど、瀬戸杏奈に売れるものはなにもない。
労働力くらいではないだろうか。
苦しい、作者の書き方が軽いからまだ受け入れられるけど、そうじゃなかったら、やっぱり溺れる。息ができない。
根幹は毒親問題
瀬戸杏奈は母親とは仲がいい。
そもそも、母親しか頼る人がいないからなんだけど、そこに罠がある。
おばあちゃんは縁結びが特技で、わかりやすい嫌味を言う、昔ながらのよくいる毒親だが、それは置いといて、瀬戸杏奈のママもなかなかの曲者なのだ。
そのあと、可哀想な娘はそれに共感してあげるのだが、要するに自分の至らなさを全部国のせいにしている、この考え方の癖に気が付きますか?
確かに底意地が悪い国っていうのは事実だしわかるんだけど、娘に愚痴んなよって話。
貧しいものはさらに奪われるとは、よく言うが、豊かになるために大学で勉強するのに、怒りを娘にぶつけたせいで、それは罪悪感を植え付けて支配へとかわってしまった。
実際、瀬戸杏奈は電気代すら気にして布団の中で目をとじるような生活をしている。
母思いの優しい娘は、街の明かりで本を読み、蒸し暑い日に扇風機だけで東京の夏を過ごす。
旅行にも、遊びにも行かず、ただただマリリン・モンローに逃避する。
「杏奈は、好きに生きなね」
こう言いながら、実は娘に好きに生きることを許していない。スナックでのシフトを増やして、自分は、娘のために頑張るの。
本物の毒親は、自分は娘によく思われるような言動をしながら、その実、悲劇のヒロインを演じて娘を支配する。こういう人なのだ。
瀬戸杏奈は母のこういった素質を受け継いでしまっている。母子家庭の学費無償化だって国の親切なのに、肉団子じゃなくて、動くのは大金なんだから、書類書いてササッと学費が振り込まれるわけもないのだ。
国でも、人でも、親切を受け入れられる人間には自尊心が必要不可欠なんだなぁ。 ②に続く