山内マリコ/マリリン・トールド・ミー③あたしは大丈夫と言えるまで
誰にも助けてと言えなくて
瀬戸杏奈にしろ新木流星にしろ、結局似たような問題を抱えているのでは…と①と②で書きました。
瀬戸杏奈はママという最大の理解者(と本人は思ってる)がいるものの、迷惑をかけているという被害妄想から、灯りやクーラーすらつけられずに貧困の中に閉じ込められている。
恋人も友人もおらず、誰にも助けてと言えない。
そんな大学生活の中、一つだけポジティブな出会いがあった。
マリリン・モンローである。
他人から見たら、ただマリリンにハマっただけでしょ。と言われてしまうのかもしれない。
だけどプリンセス・テレフォンでマリリンと話した時、ふたりはたしかに出会ったのだ。
なにかあたしにできることない?
「時々こうして話し相手になってくれるだけで充分よ」とプリンセス・テレフォンの受話器の向こうでマリリンがささやく。
でも、ここで瀬戸杏奈がマリリンと話す機会は失われてしまう。このあとのマリリンの世界線で彼女に何があったのか。
そして彼女は卒論のテーマをマリリンに決める。
マリリンを研究することは、瀬戸杏奈にとって自分自身を見つめることでもあった。彼女はそれに気付いていなくても、それは自分自身を探す旅でもあったのだ。
だけど、研究が進んで、マリリンが夢を叶え、おかしいことに声を上げても、瀬戸杏奈は変わらなかった。
後輩たちに気を遣い、痴漢に遭っても呪詛を唱えるだけで泣き寝入りする。マリリンとは似ても似つかない。
結局、何も変わることはできなかった。卒論を提出するまでは。
「コロナ抜きでも、うまくいかなかったと思う」
ママにオーストラリアに行きたいとねだる車中、瀬戸杏奈はこう言った。
いつも何かのせいにして、卑屈になり、自分の価値を認められなかった女の子が、初めて自分のことを認めたのだ。
それでも、マリリンの生きるハリウッドも、瀬戸杏奈の生きる現代日本も絶望しかなくて、その絶望のせいになにもかもしていた彼女が「コロナ抜きでもうまくいかなかったと思う」これだけ真実を告げるのに、どれだけ勇気と覚悟が必要だったことか。
結局、行動を起こさないと何も変われない。
瀬戸杏奈はオーストラリアに旅立った。
マリリンの世界線のマリリンは救えなかった。
それでも、瀬戸杏奈の中にいるマリリンは救えた。
それが奇跡のような成長。
正直舐めてました。
私は山内マリコという作家の本を初めて読んだ。「あのこは貴族」という作品が売れに売れていて、映画化されていることも知っている。
「マリリン・トールド・ミー」も文藝に連載されていた時、なんとなく途中から読んで、全体像が知りたかったから購入しただけだ。
最初、読了した時はマリリンをフェミの道具にするな!これだから作家ってやつは〜、くらいに思ってた。
しかし、ちゃんと筋も通ってる。大きな理想を掲げながら、見るべき現実に目を背けていない。純文学の作家ってどちらかに偏ってる人が多いけど、山内マリコは理想と現実同時に描ける稀有な才能を持った作家だ。おみそれしました。
私如きが偉そうに論じてみても「マリリン・トールド・ミー」の良さなんか語れないのだが、瀬戸杏奈の成長は、現実にがんじがらめになっている人に、すこしだけ希望を与えてくれるはずだ。
杏奈でも大丈夫だった。
だから、あなたでも、わたしでも大丈夫。